第37話 重機①
◆重機
そして、次の瞬間、
その異変は起こった。獣が吠えるようなエンジン音が轟いた。
パワーショベルが、白井さんの意志に反して動き出したようなのだ。
その動きがおかしい。どこに向かおうとしているのか分からないような動きだ。何かを探しているようにも見える。巨大な油圧アームが獲物を求めているかのようだ。
白井さんが慌てている様子がここからでも認識できた。
工場長が白井さんに大声を出しながら、手で何かの合図を送っているが、白井さんは理解できないようで、何度も訊き直している。
白井さんは、自分の意志を持った重機を制御できなくなった。そんな風に見える。
「おいっ、見てみろ」
事務所近くで声を上げたのは、さっき休憩室で白井さんのことを「可愛い」と言っていた若い工員だ。
もう一人が「なんだ?」と尋ねると、
「・・ショベルの先のアタッチメントが、ハサミ機タイプに変わっているぞ!」
若い工員がショベルを指して言った。
見ると、重機のメインであるアームの先端部分が、スコップのようなバケットタイプではなく、挟み込み式タイプになっている。
それは、ここに来た時からそうだが、従業員たちはその事実を知らなかったようだ。
ハサミ機は掘削のための油圧ショベルだ。そのパックリと開いたハサミは、上下に五本の長い刃を尖らせている。何でも噛み砕きそうな鋭い刃だ。
そして、重機は、360度回転する。
カタピラは、彷徨うように動いた後、動きを止め、ゆっくりと回転を始めた。
アームが静かに下降していく。
同時に、山下さんが窓を開けた。そして大声を出した。
「あなたっ、あぶないっ!」
山下さんが大きく呼びかけた相手は木村工場長だ。花田課長にではない。
工場長も山下さんの声と、重機のおかしな回転音に気づいた。
おそらく身の危険を察知したのだろう。慌てて重機から身を退きながら、
花田課長にショベルから離れるように声をかけた。
工場長の声に振り向いた無帽の花田課長は、
「え、何かね?」
そんな惚けた顔でこちらを向いた。
その顔は、工場長の忠告が「うざったらしい」そう言いたげだ。
課長は身に迫る危険よりも、白井さんの白い脚を見ることを優先させている。彼にとって、性欲は何よりも大事なのだ。
俺は、白井さんが慌てふためいているだろうと思い、操縦席の方を見た。
だが、彼女はそんな様子でもなかった。むしろ、楽しんでいるように見えた。
さっきまでおろおろしていた白井さんはどこかに消えていた。
「あんな男、いなくなればいいのに・・」
そう聞こえた声が、事務員の山下さんのものなのか、操縦している白井さんの声なのか分からなかった。それほど、二人の声が重なっているような気がした。
白井さんのヘルメットがずり上がった。ここからでも顔がはっきりと見える。髪を解いているその顔は、白井さゆり、彼女そのものだが、
俺にはなぜか芙美子の姿と重なって見えた。
あそこに芙美子がいる。
あの蟹のような細長い芙美子の指がレバー・・いや、パワーショベルの可動部やアーム、そして、アームの先端の刃先にまで食い込んでいる。
そんな想像が膨らんだ。
同時に、操縦席の白井さんと目が合った気がした。長い髪の白井さゆりだ。
「私は、決して中谷くんの前から消えることはないわ」
その声は、白井さんではなく、記憶の中にある芙美子の声だった。
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