第35話 部屋の窓①
◆部屋の窓
すると、
「あら・・」と小さく言った。
そう言った山下さんの顔を見上げると、その目は、会議室の南向きの大きな窓に注がれていた。
山下さんは、続けて「・・と、うちの人」と言った。
うちの人?
なんだ、工場長のことか・・自分の恋しい相手が外を歩いているのを見つけて喜んでいるのか。結構なことだ。そう思った。
山下さん自身も、俺のような本社の人間がいてもお構いなしだな。それとも、ここはそういう場所なのか。どっちにしろ、呆れたことだ。
そんなことを思いながら、再び仕事に戻ろうとした。
仕事を再開しようと思ったが、テーブルの向かいの白井さんの伝票の山が気になった。
それにしても、白井さんは、どんな伝票を見て、工場長と事務員の山下さんが会社の金を使い込んでいると思ったのだろう?
書類の束を手に取って、付箋の付いた伝票を見てみる。
だが、どの伝票を見ても、そんな記入はないし、出退勤記録も、工場長は毎日のように残業をしているし、山下さんは毎日、定時に帰っているようだ。
少なくとも、二人が恋仲であっても、金の使い込みはしていない。
いったいどういうことだ?
白井さんは、ただの勘でものを言っていたというのか?
なぜ?
・・それは、自分の勘を俺に信じて欲しかったからなのか? 証拠もなしに。
いや、証拠がないから、伝票や出退勤記録の話を持ち出したのではないのか。
俺はその時、白井さんの言葉を思い出していた。
さっき、白井さんは「信じてくれないんですね。係長は性善説に立つ方なんですね」と言っていた。
この状況、あの時と似ている。
あれは、学生の時だ。
夕刻・・同じ講義を終えた俺と芙美子は、大学から駅に向かう道を歩いていた。その時は、人通りの少ない道を選び歩いていた。ひっそりとした道だ。
そんな俺たちの前を、二人の男女が歩いていた。
大学の事務員の中年男と女学生だった。俺が何の気なしに見ていると、
「あの二人・・できているわね」と突然言った。
俺は「おいおい、あの二人は一緒に歩いているだけじゃないか。仲が良さそうに見えるが、推測は構わないが、男は事務員だ。女学生に手をつけているとなれば、少々問題だぞ」
その時は、芙美子の若さゆえの好奇心だと思っていた。
だが、芙美子は、
「私、そういうの、分かっちゃうの」と言った。まるで、第三者の心が分かるかのように。
俺が相手にしないでいると、
「中谷くんは、信じてくれないのね」と言って、「いつも性善説に立つんだから」と続けた。
そう妬ましく言われても、俺の方は、芙美子のただの勘だと思っていた。
だが、数か月後、その中年の事務員の男は大学を辞めることとなった。女学生・・ しかも数人の女の子に手を出していたらしい。
つまり、芙美子の勘めいたものは当たっていた。
そこまで思い出し、俺は頭を横に振った。
いや、状況が似ていると言っても、白井さんと芙美子は、まるで違う。
顔も違うし、年齢も異なる。それに立場も全く・・
その時はどうでもいいと思っていた記憶が、今、濃い記憶として俺の中によみがえってきた。
そう思った時だった。
事務の山下さんは窓に貼り付くようにしながら、
「あら、あの人・・」と言った。
名前を思い出せないのか、「経理の女の人が・・」そう言った。
山下さんは、白井さんの姿を認めたようだ。
俺は、伝票を前にして「彼女と一緒に、花田課長もいるんじゃないですか?」と訊いた。
外を見る気もしない。花田課長の鼻の下を伸ばした顔を見たくない。
訊かれた山下さんは、振り返って「ええ、うちの人と・・」とまた言いかけ、「工場長と」と言い直した。
さっき、「・・と、うちの人」と言っていたのは、「花田課長と工場長」と言っていたのだ。全く紛らわしい。
工場長と山下さんが本当にそういう仲だとなると、白井さんの言っていたことは出鱈目ではなく、本当ということになる。
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