第30話 工場②
「御苦労さんです」
定年間際の工業長の木村さんが言った。噂通り人柄が良さげだ。
テーブルに日本茶が配された。出してくれたのは、これも50歳代の人の良さそうな女性だ。名札に「山下」と書いてある。
俺たちがお茶に手をつけ始めると工場長は、
「花田課長、今回は泊まりはナシなんですね?」と言った。
訊かれた花田課長は「ああ、そうなんだよ」とつまらなそうに答えた。
泊まり・・そういえば、課長は前回は泊まりでここに来ていたな。ここだけではなく、他の工場にも。
記憶では、同行していたのは同じ経理課員の女性だ。課長は、男性社員を同行させたことは聞いたことがない。これまで、出張と称して、よからぬことをしていた可能性もある。
お茶を飲み終わると、花田課長は、「工場の調査なんて、白井くんと二人でよかったんだけどねえ」と露骨に言った。
白井さんは、「でも、中谷さんがいますから、助かります。係長は優秀なんですよ。きっと、お仕事も早く終わって、早く帰れますよ」と課長の声をすくい上げて言った。
それを言うと課長の機嫌が更に悪くなることは白井さんは気づいていない。白井さんはそれほど純真無垢なのかもしれない。
課長は、「そうだな、早く終わらせて、帰りにどこかで飯でも食いに行くか」と言った。
これは予想だが、帰りには、俺をそっちのけで白井さんを二次会へと持っていく算段が目に浮かぶようだった。
帳簿の照合などは、会議室で行う。会議室といっても、本社のような綺麗な場所ではない。同じプレハブ内の狭い空間だ。そこに小テーブルと椅子が並べられている。
テーブルについている席の位置も何故かイヤらしい。
俺が課長の向かいに座り、そして、課長は、すぐ横に白井さんを侍らせている。
おそらく、白井さんの制服のスカートから剥き出た太腿を仕事の合間に眺めているのだろう。虫唾が走る。
白井さんは意識しているのかしていないのか、懸命に作業に従事している。
花田課長は、空調が効いているのにも関わらず、額から汗を垂らしている。中年特有の粘度の濃い脂汗だ。
一方、白井さんは涼しい顔で、帳簿から、ノートへと必要な数字を写している。
そんな作業の中、花田課長は何かにつけて白井さんの席に椅子を寄せ、質問や与太話を投げかけては、彼女の肩や腕に手を触れている。ごく自然に触れている時もあれば、白井さんが体をかわしても追いかけるように触っている時もある。
総務の藤田さんは「白井さんは切れやすいところがあるのよ」と言っていた。
白井さんに切れらては困る。悪いのは課長だが、仮に白井さんが何かをすれば彼女自身にも何らかのお咎めがある。
こんな場所で何かが起きるとは思わないが、花田課長のセクハラ行為には目に余るものがある。白井さんが感情的になって切れないといいが。
また、二人の距離が近い。課長は白井さんの見ている伝票を見る振りをしながら、その厭らしい顔を最大限に近づけている。
テーブルがガタッと揺れた。
白井さんが「ちょっと、課長!」と抗議の声をあげ体を椅子を上げてずらした。
まさか課長は、俺の位置からは見えないテーブルの下で、白井さんの脚に触れているんじゃないだろうな?
俺の我慢も限界だ!
俺が声を上げようとした瞬間、
「ずいぶんと、外がうるさいな」花田課長が大きな声で言った。
騒音の原因は、事務所の外だ。部屋の窓からは、工場の広大な敷地が見える。
敷地が見えると言っても、砂利の土地に高く積まれた鉄屑。舞い上がる砂埃。
それに、工場から工場へと忙しく走り回る台車に軽トラック。どれも殺風景なものだ。
殺風景な上に様々な騒音。
加えて細かな騒音を圧倒的に凌駕しているのは数台の重機だ。
中でも、群を抜いて大きなパワーショベルが課長の「うるさい」という物の正体だ。
大きな建設現場に使用されるもので、その価格もトップクラスと聞く。
さっきの人の良さそうな事務員の山下さんがお茶を出しに現れると、花田課長は、
「重機の音がやかましいな。新しいショベルだろ?」と文句を言った。すると、女性は謝りながら、
「すみませんねえ。あのパワーショベル、先月、購入したばかりなのに、調子が悪いんですよ。私も専門的なことは分からないですけれど、ショベルの肝心のアーム部分がおかしいらしいです」と説明した。
「油圧ポンプの伝達部分、ギヤとか悪いんじゃないか」と花田課長は適当なことを言って、「いずれにせよ、メーカーを呼んで見てもらえ」と偉そうに言った。
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