第26話 モップ③

 すると、若い看護師が「看護師長、このモップの先、血が付いてます! たぶん、さっきの方の血ではないかと・・」と声を上げた。

 そう呼ばれた看護師がモップを念入りに見て、

「ヤマノさん、どういうこと? 説明してちょうだい」と立ち尽くしてる看護師を問い詰めた。

 訊かれた彼女は、「わ、私、何も知りません!」と訴えている。

 どういうことだ?

 俺の目には、どう見ても、彼女が近藤の親に、槍でも突き刺しているように見えたが。

 状況は、ヤマノという看護師に不利な展開となった。

 すると、看護師長の背後で、その様子を見ていた若い看護師同士が小さく話しているのが聞こえた。


「いやあねえ。ヤマノさん、昨日、振られたばっかりなんでしょう?」

「そうみたいですよ。長くつき合っていた彼氏には婚約者がいたんですって」

「ええっ、その振られたショックで、見舞客に八つ当たりをしたっていうわけ?」

「いくらなんでも、やり過ぎでしょ」


 そんな話を聞いていた看護師長が「憶測でものを言ってはいけません!」と貫禄たっぷりの口調で戒めた。


 憑りつかれているように見えたのは、近藤の父親ではなく、看護師の方だったのかもしれない。

 俺は、とにかくこの場を去りたかった。

 俺はただの見舞客だ。たまたま来て、この災難に巻き込まれたに過ぎない。


 俺は崩した身なりを整えると、「もう帰っていいですか?」と言った。予想通り、看護師長に事情を訊かれたので、ざっくりと説明した。

 気分が悪くなったのでトイレに駆け込むと、追うように近藤の父親が入り込んで来て、言い掛かりをつけられたこと。そして、その背後から若い看護師が彼を突いたこと。

 それが全てだ。

 言い掛かりとは、何か? と訊かれたので「息子が、入院することになったのは、おまえのせいだ」と因縁をつけられたと言った。

 これは、あくまでも個人間の問題だ。

 個人間の問題のところへ、病院の関係者が止めに入ったようだが、やり過ぎたんじゃないか? と俺は抗議した。問題を大きくするつもりもないから、早く帰して欲しいと願い出た。

 これは推測だが、病院にとってもこのような暴力事件、しかも従業員から出たとあっては公にしたくはないだろう。そう思った。


 だが、この問題はそんなことではないし、事件の闇はもっと深い。それは俺自身が一番よく知っている。

 そう思った時、体を冷気が包み込んだ。この冷気、あの洞窟の中と同じだ。

 背筋にぞくぞくっと悪寒めいたものが走った。 

 だが、周りには、看護師たちがいるだけだ。

 看護師長、数名の看護師と警備員、そして、ヤマノという女性看護師。他に誰ももない。

 気のせいか・・

 と思って、入り口の姿見サイズの鏡に目をやった。

 そこにも当然のように女性看護師たちが映っているのが見えた。

 だが、俺の目は、その中に隠れるように立っている髪の長い女・・芙美子の姿を見た。

 ハッとした俺は鏡から目を離し、前を見た。だが、そんな女はどこにもいない。

 もう一度、鏡を見直したが、やはり、そんな女はいなかった。

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