第19話 セクハラ①
◆セクハラ
翌朝、ガラスに付いていた手の平の形状をした汚れは消えていた。
妻が「変ねえ」と言った。「こんなことって、あるのかしら?」
そんな現象、あるはずがない。
・・心が重い。
仕事に向き合うのが重いのは当然だが、昨晩から気になることが多すぎる。
心の奥底に仕舞い込んでいたはずの芙美子のことが、たった数時間で、昨日のことのように蘇ってしまった。
記憶は消し去ることができないものだし、自分が犯したことは、いくら時間が経っても許されることではない。
だからと言って、今更どうすればいいというのだ? 自首すればいいのか?
すると、妻や裕美はどうなる? 犯罪者の妻と娘になってしまうんだぞ。俺は自分に言い聞かせるように強く言った。
言ってはならない。
それに、芙美子は生きているかもしれないじゃないか・・
俺は芙美子の遺体を確認したわけでもない。
そんな風に、俺は楽な方向に舵を切ろうとした。
だが、そんな心の操作だけで、俺の犯してしまったことが帳消しになるわけではなかった。
仕事に集中できない。
経理の花田課長に呼び出され、小言を言われた。
伝票の勘定科目が間違っていたし、数字も、摘要欄の入力も違えていた。つまり、雑だったのだ。
普通の社員なら、こっぴどく叱られるところだ。
だが、花田課長は俺に対しては、回りくどく責める。
「中谷くん・・あんまり言いたくはないんだけどねえ。私にもそれなりの立場があるからねえ・・」とか言ってネチネチと責められる。
その理由・・
俺が在籍する会社は、妻の父親のコネで入社した建築会社だ。俺の卒業した大学では、ここまでの会社には就職できなかった。
ここまでの会社といっても、妻の親が経営する会社の子会社だ。孫会社でないのがせめてもの救いだ。
所属部署が、営業ではなく経理課に配属されたのは、妻の父親の意図があってのことらしい。
そんな風に無理をして入れさせてもらった有り難みもあるが、その反面、イヤな思いもそれなりにしている。それは俺の学歴が周囲の人間に比べ低い、ということだ。
周りの人間が俺を見下しているのがわかる。コネで入社したくせに、そんな囁きも聞こえてくる。
だが、そんな俺でも味方はいるものだ。
俺のデスクにコーヒーがすっと差し出された。社員がセルフで入れるコーヒーだ。
差し出し主を見上げて俺は「ありがとう」と言った。
その女性は「いえ・・」どういたしまして、という顔を見せた後、立ち去った。
その人は、同じ経理課の白井さゆりだ。まだ二十代だ。
彼女には、二年ほど経理のイロハを叩き込んだ。そのせいかどうかは分からないが、妙に俺を慕ってくるし、親切だ。それに食事にも誘われたりした。
白井さんは魅力的な女性だし、俺に多少の浮気心がないわけでもない、ただ、ここは妻の親のコネで入った会社だ。うかつに女性社員と仲がよくなったりでもしたら、 すぐに妻の両親に伝わる。それほど、この会社には妻の父親の知人が多いし、妻の親族も少なくはない。
それでも、何がしかの運命の輪が回っているようだ。不思議と彼女とは縁がある。飲み会でも隣同士になったり、なぜかカラオケのデュエットを唄わされたりする。それは無理強いでもなく、ごく自然にだ。
バレンタインの時なども「このチョコ、他の人の分と違いますから。係長だけですよ」と言って、明らかに他の男性陣に配っている物とは異なる包みを渡された。
そんな好意を無にすることなく、かつ、家に持ち込むことなく、屋上でチョコレートをこっそりと食べた。
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