第17話 髪③

 そう・・俺が結婚したのは、大学の教授の紹介の女性だった。

 一流企業のご令嬢だった。

 だが、そんな夢物語のようなことは、俺の人生で起こるはずもなかったのだ。

 紹介された女性は、バツイチだった。それを知ったのは、芙美子を洞窟に置き去りにしてきたその直後だった。あれからの俺は、話を断れない状況の中に、どんどん追い込まれていった。

 そして、美智子には、別れた夫との間に出来た娘がいた。

 それが、裕美だ。

 離婚の際の諸問題は、全部、妻の父親が片付けてくれたから、大きな問題はなかった。

 

 芙美子をあんな風にしてしまったその代償としては、納得のいく人生ではなかった。

 未来が少しずつ歪められていくのを感じていた。

 だが、実際に家庭を持ち、平素な暮らしを続けていると、その中に、妥協というものが生まれ、今の生活を守る側になっていった。


 だが、義理の娘の裕美は、俺を「お父さん」と呼ぶことはない。

 一度、そのことをさりげなく言うと「お父さんと呼ぶには若すぎる」と返された。

 確かにそうかもしれない。俺は「それもそうだな」と言って笑った。

「俺が、もっと年を取ったら、そう呼んでくれ」

 続けて言った俺に裕美は、

「そんな頃には、私はこの家にいないよ」と言った。


 風呂に入った後、居間のソファーに深く座ってテレビを見た。

 妻も片づけを終え、小さい方のソファーに腰かけた。

 そして、何気なく妻を見た俺は、一瞬ドキッとした。

 妻の白い部屋着が、ファミレスで見た女の服と重なって見えた。更に目をしばたたせた。

 妻の姿が二重に見える。

 一時的な乱視なのか? いや、ただの疲れ目だろう。

 それに、風もないのに、妻の長い黒髪がそよいでいるように感じた。慌てて空調を見上げたが、機械は動いていない。

 俺の位置から見える妻の横顔。その頬に、そよいだ髪がはらはらと数本かかった。

そんな妻の顔を見ていると急に息苦しくなってきた。そもそも、妻の髪はどうしてこんなに長いんだ! 無性に苛立ちを覚えた。


「最近、髪・・切っていないよな?」テレビを見ている妻に声をかけた。

 妻は「えっ」と言って、俺の方に頭を向けた。

 更に俺はドキリとした。妻の顔が・・白い。その白さは芙美子のものだ。

 だが、そう思えたのは、ほんの一瞬だった。妻の肌はそこまで白くはない。

「あなた、何か言った?」

 すぐに妻の顔はいつもの美智子に戻っていた。

「だから、髪がずいぶんと長いな・・と思ってな」

 そう俺が言うと、

「あなたが、長い髪が好きだって、言ったんじゃないのよ」と妻はむくれたような顔で反論した。「髪が長いと手入れも大変だから、短い方がいいのに、あなたのために伸ばしているのよ」

「・・俺、そんなことを言っていたのか?」

「ええ、言っていたわよ。私と結婚する前よ」

 結婚する前? すると、芙美子を洞窟に置き去りにして、結婚する頃に俺はそんなことを言っていたのか?

 俺は、何のためにそんなことを・・

 わざわざ芙美子のことを連想させるようなことを、俺はどうして言ったのだ?

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