第15話 髪①

◆髪


 近藤が救急車に担ぎ込まれていった後、店内は警察の事情聴取で大変だった。帰りを急ぐ者も呼び止められ、「いい迷惑だ」と怒りの声を露わにしていた。

 店長は、「ひでえ女だ。俺は、大けがを負ったよ。この女に思いっ切り蹴られたんだ」とひたすら言っているし、

 芙美子だった女は、全く知ら入ない、記憶がない、と突っぱねている。

 その後は事件性があるということで、女性は無理矢理に警察に連れていかれ、俺の方は、近藤との関係を訊かれた後、後日、参考程度に意見を伺う、ということだった。


 その後、いろんな証言が行き交ったが、どれ一つとしてまともな言葉はなかった。

 事情聴取を受けても、おかしな証言ばかりだった。

 あやうく停電になりそうだった、とか、まともに食事が出来なかったとか。

 女性客に至っては、店長にパンツを見られた、セクハラだとか、店長を非難する始末だし、

 潰れた近藤の顔を見て、気分が悪くなった。わざわざ食事をしに来て、どうしてこんな目に合わなくちゃならないんだ! 金を返せ、とコーヒーしか頼んでいない男が抗議していた。

 そんな中に、一人の男が「俺は、見たんだ。女の顔が、さっきの女と違っていた」と言って「別の女の顔が空中を彷徨っていた」と大きく声を張り上げていた。

 だが、この時代に、そんな言葉にまともに耳を傾ける者などいない。

 この件は、ただの暴行事件として処理される。


 そして、俺は思う。

 芙美子が近藤の頭を掴んでいた時、俺が「芙美子、やめてくれ!」と言うか、店長が現れなかったら、芙美子は、近藤の顔はおろか、頭蓋骨全体を破壊してしまったのではないだろうか。

 つまり、近藤は、俺か店長、どちらかの行動で命拾いをしたのだ。


 だが、そんな細かな問題よりも、大きな疑問がある。

 俺の頭は大きく混乱していた。

 ・・芙美子は、生きていたのか?

 洞窟に置き去りにしたと思っていたのは、俺の思い過ごしで、芙美子は何とか洞窟を抜け出した。脱出に成功したのだ。そして、俺を探していた。そんな時に街で近藤に出会ったのだろう。そして、近藤と関係を持ったことを俺に言って欲しくなくて、近藤に口止めをしていた。

 それを軽々しく俺に言った近藤に、芙美子は逆上し、あんなことを・・

 だが・・

 だったら、さっきの女の顔はどう説明するというのだ。

 女は会ったことも見たこともない顔だったし、芙美子とは似ても似つかない顔をしていた。手の大きさ、指の長さも普通に戻っていたし、髪もそれほど長くはなかった。

 俺の目にそう見えていただけなのか?

 考えれば考えるほど混乱が渦を巻き、その中に吸い込まれていきそうだった。


 やっと解放される頃には、雨が上がっていた。雨は降ってはいないが、濃い霧が出ていた。窓の外の街灯がぼんやりと見え、ジメッとした空気が入ってくるようだった。

 客の中で、店内に残ろうとする者は誰もいなかったし、パトカーのパトライトが明々と回っている店に誰も入って来ようとはしなかった。

 俺は近藤の運ばれた病院まで様子を見にいったが、入室は断られた。


 帰りが遅くなってしまった・・携帯を取り出し、妻におよその帰宅時間を告げた。

 そして、電車を乗り継ぎ帰路についた。家には妻と一人娘が待っている。

 家に近づくと、一戸建ての我が家を見上げた。惨害部屋に電気が点いている。こんな時間だ。娘の裕美がとっくに食事を終え自分の部屋で勉強しているのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る