第12話 握力②
すると、近藤の頭の横から、女がすっと顔を横に出した。
芙美子だ。俺を見て、優しい微笑みを浮かべている。
「やっと会えた・・」俺には、芙美子の顔がそんな風に見えた。
見間違うはずがない。長い髪、その白い肌。すっと通った鼻筋に、薄い唇。美人だが、病的な感じがする。それが芙美子だ。
だが、どこかしら違和感が拭えない。
俺は、この女の顔を、さっき店に入ってくる時に見たはずだ。ちらっとだけだが、見ている。
それが芙美子だったら、絶対に分かるはずだ。髪は同じように長かったが、その時の顔は違った。
しかし、目の前に顔を出しているのは、紛れもなく、俺が洞窟に置き去りにしてきた女、市村芙美子だ。
生きていたのか・・
そんなことを口に出すわけにはいかないし、両手を広げて歓待の意を表するわけにもいかない。
この女が本当に芙美子なら、彼女は俺のことをどう思っているのだろう?
洞窟に置き去りにしてきた俺は、芙美子に罵られて当然の男だ。
俺が何を考えようと、 目の前では近藤が苦しそうに呻いている。
隣向かいの女性客が、「あれって、何をしているの?」と言い始めた。
ひょっとして、この光景は、他人の目には男と女がじゃれ合っているようにしか見えないのかもしれない。
それよりも、芙美子は近藤の目や口を塞いでどうするつもりなのだ?
「芙美子・・なのか?」
俺がそう言うと、
芙美子は、シートに膝を立てているのか、その顔が、ぬーっと近藤の真上に現れた。
「中谷くん、お久しぶり・・」
そう言った芙美子の顔が涙に溢れていた。何の涙なのだろう。
俺に洞窟の中に置き去りにされたことの悲しみなのか、再会の涙なのか。
いずれにせよ・・恐怖しかない。
理由は、どうあれ、こんな再会の仕方は異常だ。
芙美子が涙に濡れた顔を見せたのは、ほんの一瞬だった。芙美子は、すぐに近藤の頭に向き直り、
「口が軽い人はこうしないとね」
芙美子は、大きな手で、近藤の顔全体を覆った。
両方の小指は、近藤の口に入り、口がどんどん広がっていく。
近藤の口が力を失ったように、あんぐりと開き、ハンバーグがごろっと零れ、テーブルに落ちた。
次に、芙美子の指が、足の長い蟹のように広がり、近藤の頬の肉に、10本の指が食い込んだ。
これが近藤が言っていた手が大きい、ということなのか。手が大きいというよりも指が異常に長い。
そして、その細く長い指が、ゆで卵を大まかにスライスする裁断機のように、近藤の顔に食い込んでいった。
圧倒的な指の力なのか、握力なのか・・メリメリと音がした。その音が、骨の崩れる音なのか、肉がずれていく音なのかも分からない。これまで聞いたことのない音だ。
「よせ、よしてくれ!」
おそらく近藤はそう叫んでいるのだろう。だが、声を出せない。その代わりに俺の方に腕を差し出している。俺に助けを求めているようだが、当の俺は、腰が抜けたようになって、体に力が入らない。おまけに声も出ない。こんな経験は初めてだ。
「近藤くん、あなたは中谷くんに嫌われているのよ。わかって?」
俺が近藤を嫌うだと? 芙美子はそう思っているのか?
確かに、口の軽い近藤を恨めしく思ったが、
もしかして、芙美子は、それで・・
ここまで事態がひどくなると、他の客の注目を浴びてしまう。
向かいの女が、「あの男の人・・血が出てる」と相方の女に言った。
近藤の顔とは思えないほど、異様に変化した頬から、血が噴き出している。
それを見たもう一人の女が大きな悲鳴を上げた。すると連鎖するように、他の客の視線を集め出した。
近藤の顔から、ベキッと鈍い音が聞こえた。何かが砕けたような音だった。
同時に、芙美子の細長い指で分断された頬の肉から、張り詰めたトマトに圧力を加えたように、プチュッと血が数回に分けて噴き出した。
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