第七章
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近衛有明が、オープンしたばかりの近所の店でラーメンを食べて帰宅すると、一発の銃弾が家の壁を突き破り、近衛の額をかすめた。
「おやおや。ぱっつんになっちまったよ」
銃弾によって切り落とされ、床にはらはらと散った前髪を見下ろしながら、近衛はつぶやく。
狙撃手に狙われるのは慣れている。帰宅した瞬間から、なんとなく「嫌な感じ」があって、あ、標的にされているな、と感じてはいた。こういう場合の「かわし方」は心得ている。
(手練れだね)
近衛は思いながら壁に開いた穴を見た。銃弾は壁を破っているので、狙撃手は壁越しでも近衛の位置を察知していたことになる。
そうこうしているうちに、また一発。今度も壁を破り、近衛の耳をかすめた。かすり傷でも、銃弾の勢いによって鮮血が飛び散る。自分の血を見るのは久しぶりだった。
「ぼやぼやしてる時間はないか」
自分の血を見るのも久しぶりなら、近衛が本気の目付きになるのも久しぶりのことだ。彼女は目に力をこめると屋内を移動し、狙撃手が撃ってきたのとは反対方向の窓を破って外に出た。そのために屋内を移動している間も、銃弾は近衛のことを追いかけるように床へ何発も撃ち込まれて――そのうちの数発は、先に壁に開けられた穴を正確に通り抜けてきた――うち一発は彼女の右かかとの肉を削り取った。
屋外に出た近衛は、疾風のような勢いで果樹園を駆け抜ける。狙撃手のもとへ直接向かうつもりだった。
敷島瑠璃は、カントリーエレベーターの屋上で、落ち着いた手つきで愛用のリー・エンフィールドMk Vのボルトを引き、弾を装填した。
ごつい木製の銃床は、瑠璃の腕によくなじむ。しかしボルトアクション方式のリー・エンフィールドは、本来は早い射撃には向かない。まして、瑠璃の狙撃術をもってしても仕留められない、近衛有明のような相手ならなおさらなのだが、それでも自分とこの「相棒」が組めば、どれほど銃弾のかわし方に長けている相手でも敵ではないだろう。慌てる必要はない。
瑠璃はここで、数時間前から近衛有明の帰宅を待ち構えていた。
本当は、もっと早く帰宅するものと思っていた。どうやら、どこかで昼食を食べてきたので遅くなったらしく、玄関先にようやく現れた近衛は大きな口をあけてゲップをしていた。
それまではなかなか本人が帰宅せず、やきもきしたものだ。家を訪れた人物と言えば、郵便配達と一人の老人だけだった。頭が大きく、鼻筋が通っており顎の小さい老人だ。おそらく若い頃はかなりの男前だったろうと推測できる風貌で、彼は何やら難しそうな顔でインターホンを押し、近衛が留守だと分かると残念そうに去っていった。
改めて、瑠璃は双眼鏡を覗いた。近衛は恐るべきスピードで屋外に出ると、あのスナイパー泣かせの果樹園を突っ切ってまっすぐこちらに向かっていた。その速度といったら、双眼鏡であのビキニ姿を捉えたと思った次の瞬間にはもう数メートル先にいるほどだった。
慌てる必要はないが、急ぐべきではある。
照準器の先に近衛の姿を捉えながら撃つ。屋内で狙った時は後を追うように連射してしまったが、今は弓を引き絞るような緊張感を指に込めながら、一発ずつ慎重に引き金を引いていた。
しかし当たらない。近衛のスピードは速すぎて、とても肉眼では捉えられない。
殺し屋デビュー以降、基本的に狙撃を外したことがない瑠璃だったが、今度ばかりは自信が揺らぎそうになった。それでも、初めて近衛と会った時に瞬時にして背後に回り込まれた、あの人間離れしたスピードは今でもはっきり思い出せる。彼女のあの速度も最初から計算のうちだ。
カントリーエレベーターには農家が収穫した米を数百トンも貯蔵するサイロが設置されているので、その高さは三十メートルにも及ぶ。仮に近衛が瑠璃のいる屋上へたどり着くとしても、そのためのルートは限られている。さらに周囲は田んぼが広がっているので、身を隠すものは何もない。果樹園を駆け抜けて、近衛が田んぼ地帯に姿を現してからが本当の勝負だ。
殺せ、という指令を受けたわけではない。だが瑠璃は、近衛のことが許せなかった。
(あの人は、鈴木茂太を始末しなかった)
スーパーモータースの鈴木茂太社長は、昨日いきなり緊急記者会見を開き、これまで会社内で行っていた不正を自らあらいざらい明らかにした。
中古車販売業最大手の一流企業による手口は衝撃的なものだった。持ち込まれた車両を従業員が傷つけて修理費用を吊り上げたり、いわゆる事故車であることを隠して中古車を販売したり、店舗の美化運動と称して街路樹を切り倒させたり、保険代理店の立場を悪用して保険金の水増し請求を行ったり――と、それらが全て本当なら、もはやスーパーモータースが現在と同じ形態の業務を続けるのは不可能だろうと容易に察しがつく内容だった。
損害保険会社大手であるニッポン損保との癒着も社長自らが暴露し、どうやら社長はそっちも道連れにするつもりらしい。
なぜ突然の記者会見を開き、悪事を自らばらして世間に対して「自首」する気になったのか、という新聞記者の問いかけには、鈴木はこう答えていた。
(ビキニの女神が告げたんですよ。悔い改めよ、さもないと殺すぞ、とね)
その言葉を聞いた大多数は、鈴木は頭がおかしくなったのだと無言で結論付けていた。しかし牟田口や瑠璃にとっては、何があったのかは言うまでもないことだった。近衛有明にやり込められたのだ。
(近衛さんは任務を放棄したわけですよね。始末しないんですか)
瑠璃は牟田口に尋ねた。ターゲットを始末し損ねた殺し屋は、クライアントから処分されるのが一般的だ。BOUコンサルティングはそれも依頼主にかわって代行しており、瑠璃も今までに任務に失敗した同僚を何度か手にかけている。
だが、牟田口は笑ってこう言った。
(あいつは特別だからさ)
聞けば、彼女はその強さゆえに特権的な立場にあるらしい。クライアントの望む結果を出すことができれば、ターゲットを殺すか生かすかは近衛が判断していいいことになっているという。それはルールとして明文化されたものではなく、昔からの慣習なのだそうだ。
瑠璃はそれが許せなかった。彼女はもともと、ルールから逸脱している存在が嫌いだ。
瑠璃は、この世界でもっとも信頼できるものはルールだけだと思っている。
彼女は今までたくさんの企業を渡り歩くようにして働いてきたが、どこでも人間関係で失敗した。特に苦手なのは、ルールとして決まっていないことが組織の中で暗黙の了解として容認されているケースだ。例えばサービス残業。矛盾した指示を出してくる課長と係長。求人広告に書いてあるよりも低い給与額――。
おそらく世の中には、明文化されたルールとは別に、暗黙の了解のレベルでのルールの世界があるのだろう。それ自体は分かるのだが、しかし瑠璃はそうした空気が全く読めない人間で、ルールからの逸脱やルール同士の間の矛盾があると訳が分からなくなり、すぐ人に質問したり追及したりしてしまうのだった。
ところが、本人は詰問するつもりはなくとも、そうした点を指摘されることでイライラする人間は殊の外多いらしい。瑠璃はそういうことを繰り返すたびに職場内で叱られ、詰られ、嫌われて疎まれていった。その結果、職を転々とする羽目になった。
そうした経歴を経てたどり着いたのが、BOUコンサルティングの狙撃手という仕事である。殺し屋としての狙撃に面倒臭い空気は存在せず、あるのは相手を仕留めるか否か、生か死か、というシンプルなルールだけだった。それが瑠璃にはたまらなく居心地がよく感じられた。
(任務に失敗した者は殺す。それがルール)
だから瑠璃は銃を構えた。近衛が憎いわけじゃない、むしろ気さくないい姐ちゃんだと思う。だか、だからこそルールからの逸脱は許しがたい。気さくだから、そして殺し屋として強いから――そんな理由で特権を与えられている、つまり「贔屓」されている存在は、ルールの公正さを脅かす。瑠璃が最も居心地よく思える空気を汚してしまうのだ。
それに、そんな存在が許されるなら、今まで瑠璃が手にかけてきた、任務に失敗した同僚の殺し屋たちが浮かばれない。
殺し屋たちは誰しも、多かれ少なかれ自分の罪を自覚して生きている。感情的には、常に自分のことを有罪だと思って生きているのだ。その罪責の念は極めて感情的なものなので、もはや瑠璃たちは感情によっては自分を許すことはできない。
それでも自分たちは、なんとか平静を保って生きている。まるで自分以外の何かが、辛うじて許してくれているかのように――。
それは、瑠璃たちが感情ではなく、あくまでもルールに則って標的の命を奪っているからだろう。感情ではもはや殺し屋たちは救われない。自分たちの殺しが、ルールに沿った形で行われているという事実だけが、辛うじて罪責の念の拠り所になっているのだ。
だから、瑠璃は近衛のあり方が我慢ならないのだった。彼女のやっていることは、瑠璃や同僚たち、そして自分たちが手をかけた者たちへの冒涜に感じられるのだ。彼女が「いい人」だからこそ、そして強いからこそ、そのレベルに至れずただルールだけを心の拠り所にしているような人間にとっては、彼女はひどく厭わしい。
改めて、瑠璃は「相棒」のリー・エンフィールドを構えた。――今度こそ。
さっき果樹園に飛び込んだばかりの近衛有明が、ほんの数秒で園地を駆け抜けて飛び出してきた。
――いけるか。一瞬、瑠璃はそう思ったが、不意に近衛が顔を上げてこちらを睨みつけてきた。その目線は確実に瑠璃がいるカントリーエレベーターの屋上を捉えており、目が合った気がして、引き金に添えられていた彼女の指に震えが走る。
近衛は、遮るもののない田んぼの間の小道をまっすぐに駆け、カントリーエレベーターに向かって疾走していた。
田んぼ道には、一切の遮蔽物がない。これで仕留められなければ狙撃手の名折れだ。瑠璃はなおも照準を合わせようとしたが、しかし近衛は信じられないほどの俊足だった。どうやら今まで走っていた時のスピードはフェイクだったらしく、ここに至ってその速度が上がった気がする。さっきまでと同じ感覚では、狙いを定められそうになかった。完全に調子が狂う。
(なんて人だ!)
思い通りにいかない。瑠璃は焦った。だが、近衛が駆けている田んぼ道とカントリーエレベーターまでの間なら、近衛は銃弾を防ぐことはできない。状況は依然として瑠璃に有利である――はずだ。
で、改めて瑠璃が銃を構えたその時、近衛は意外な行動に出た。走りながら思い切りジャンプしたのだ。水着姿の肢体が宙を飛び、空中でくるりと一回転したかと思うと、付近の田んぼの片隅にあったビニールハウスの上に着地した。
ビニールハウスの骨組みは、複数の鉄パイプによって構成されている。近衛はハウスの天井部分で組まれたパイプの上に立ち、もう一度しっかり瑠璃の方を睨みつけてきた。
(来た)
瑠璃は反射的に目を閉じた。思い出したのは、あの、近衛と初めて相対した時に起きた、殺意を撥ね返される現象だった。彼女が立っているビニルハウスとカントリーエレベーターとの間は依然としてかなりの距離があるが、瑠璃はまた近衛と目が合うのを感じた。そして、彼女と真正面から目を合わせれば、必ずまたあの「撥ね返し」が来るだろうという予感があったのだ。
間もなく目を開けると、近衛有明は、ビニルハウスのてっぺんで仁王立ちになっていた。
「? 格好の的じゃないですか」
逃す手はない。瑠璃はすぐにリー・エンフィールドにとりつき、瞬間的に照準を合わせた。
だがちょうどそのタイミングで、近衛が突然動き出す。何事かと瑠璃は一瞬びくりと体を震わせたが、次の瞬間にはわが目を疑っていた。近衛有明が、ビニルハウスの上で踊り始めたのだ。
最初は、空を切り裂くような複雑な腕の動きから始まった。次に顔の前に右の手の平を持っていき、親指から順に指を折り始めてカウント・ダウン。5・4・3・2・1――。
カウントが終わると、中腰でステップを踏んで一回転。立ち上がって右肩に手を当てたかと思えばジャンプとステップを繰り返して、同時に両腕を手刀のようにして空を切り、鋭く複雑な動きを見せる。
(何あれ。一体何?)
瑠璃は近衛の狙いがどこにあるのか全く分からず混乱した。狙撃手に狙われていると分かっている状況で、突然ダンスを始めるなど狂気の沙汰だ。普通なら身を隠すか逃げるか、反撃しようとするものだ――もっとも今までのターゲットの誰もが、それによって瑠璃の狙撃から逃れることはできなかったが――しかもそこは平地ではなく、極めて不安定な一本の鉄パイプの上なのである。
まずいことに、そのダンスには、明らかに見る者を魅了する力があった。
瑠璃はダンスには全く興味がない。しかし、離れたビニールハウスの上でステップを踏んでいる近衛有明の姿には否応なく惹きつけられた。鉄パイプの上で危なげなくステップを踏み、回転したかと思えばロボットのような精密な手の動きで空を切る――。あの踊りは一体なんだろう?
その時、瑠璃の頭の中で音楽が鳴り響いた。さらに、歌声まで聴こえた――気がした。
With music by our side to break the color lines
力強く鋭い、叫ぶような女性の声で歌われる詞。その声は近衛のものではない。
近衛がビニールハウスの上で横を向き、手の動きと合わせてステップ。それから正面を向いて中腰になり、片足ずつ二、三回と横に突き出す。
People of the world today, are we looking for a better way of life?
うるさい! 叫び出したい衝動に駆られながら、瑠璃はとっさに耳をふさいだ。しかし頭の中の音楽は鳴りやまない。まるで、子供向けのシンプルな歌をたまたま耳にして、そのフレーズが頭の中から離れなくなった時のように、そのメロディーが強制的に脳内で再生されている。
(馬鹿な。あの人の踊りを見ているだけで、音楽が聴こえてくるなんて)
信じられない思いだが、実際そうだった。瑠璃の目線は今や完全に近衛のダンスに釘付けだ。そして頭に鳴り響くリズム・アンド・ブルースともソウルともつかない迫力のあるサウンドは、近衛のダンスによって発せられているのか、それとも脳内で発生しているのか、瑠璃には区別がつかない。
We are a part of the rhythm nation
(ここがサビかよ。気が散る。うるさい! 狙いが定まらない)
ジレンマだった。照準を合わせて、踊っている近衛を凝視すれば音楽が頭から離れなくなる。すると気が散って狙いが定まらなくなる。調子が狂って仕方がない。
それでも、ほとんど苦し紛れに、瑠璃は一発撃った。だが案の定それは近衛には当たらず、彼女の足元のパイプに命中した。鈍い金属音が瑠璃のところにまで響き、近衛にもかなりの衝撃が走っているはずだが、彼女はもとともせずに踊り続けている。
(とにかく撃て、撃つんだ。どうせあの状態からは何もできやしない)
瑠璃は自分にそう言い聞かせて発砲し続けた。そのうちの何発かはいい感じに近衛に命中しそうだったが、ビキニ姿の彼女は撃たれるタイミングを読んでいたかのように、踊りながら軽やかに弾丸を避ける。
「どうして当たらないの!」
瑠璃は小さな声で叫ぶ。彼女は気が付いていなかったが、いつしか瑠璃は、頭の中で強制再生されている音楽のリズムに合わせて引き金を引いていたのだった。だから近衛には狙撃のタイミングが予測できたのだ。
it's time to give a damn, let's work together
(二番もあるの? もう許して)
瑠璃は泣きたくなる。しかも何たることか、togetherの後で瑠璃はほとんど無意識に「カモンナウ」と呟いてしまい、思わず口に手を当てていた。聴き手による合いの手――ライブやコンサートだったら、歌い手が観客席にマイクを向けて口にさせるあれだ。
そもそも瑠璃は邦楽派であり、洋楽は聴かない。それなのに、まるで最初からこの歌を知っていたかのように合いの手を入れているのは訳が分からなかった。近衛有明から化かされている気分だ。
People of the world today, are we looking for a better way of life?
望むと望まざるとに関わらず、歌は二番のサビに入る。近衛はダンスの中で両膝をカクカクさせ、それから間奏に入ると今度は何度も片足で回転し、ヌンチャクを振り回すような動作をしたかと思えば、続けてバレエのように片脚を上げるアクションを繰り返した。
People of the world today, are we looking for a better way of life?
Sing!
Sing、と云われたら歌わないわけにはいかない。ついに、瑠璃はつられてWe are a part of the rhythm nation――と口にしながら引き金を引いていた。
(ああ、これも駄目だ。あまりにも音楽のリズムに乗り過ぎている)
この銃弾も、近衛有明に当たることはないだろう。瑠璃はため息をついて諦めた。
だがこの銃弾が決定打になった。今度こそ近衛は完璧にタイミングを読んでいたのだ。彼女は唐突に踊るのをやめると、どこからか移植ベラを取り出して、テニスのラケットのようにひと振りして弾丸を弾き返した。弾丸はいわば逆流する形で瑠璃の「相棒」であるリー・エンフィールドの銃口へ入り込み、銃身を内部から破壊した。
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