第六章

   6

 財津と、近衛有明と呼ばれたビキニの女が対峙しているのを、鈴木は椅子の後ろから覗き見ていた。

(財津が負ければ、俺は殺される)

 そう考えると、自分の気持ちとは関係なく恐怖で体が震えた。下顎がガクガク痙攣する。

 二人がやり合っている間に逃げよう、とも考えるのだが、明らかに近衛は視界の隅で鈴木の動きをしっかり捉えている。迂闊に動けばやられるという確信があった。

 そうこうしているうちに、ふと気付いたことがあった。社長室の視界が、どことなくぼんやりしてきたのだ。最初、鈴木は自分の視力の異常かと思ったが、そうではなかった。いつの間にか室内に霧が満ちていたのである。

「おや、何やら湿気があると思ったら。これもアンタの手品――いや、マ法かい?」

 財津と睨み合っていた近衛が、構えを解いて周囲をちらちらと見回しながら尋ねる。財津はそうです、と頷いた。

「これは、霧を噴霧する機械です。こんなこともあろうかと、社長に内緒で天井に設置しまして」

「内緒かよ」

 鈴木と近衛が同時に突っ込む。すると財津は急に肩の力を抜き、全身でだらんと脱力した。

「今からお見せしますマ法は、本当は闇夜や煙の中で威力を発揮します。ここではどちらも望めないので、人工的にセッティングしました。それでは――」

 と言った瞬間、財津の姿が濃霧の中に消えた。既に社長室の中は真っ白な霧で満たされ、鈴木も近衛も自分の手の場所すらも分からないほどの濃霧だった。

「こっちだ!」

 近衛が叫んで腕を振るうと、刃物が弾かれる金属音がして火花が散った。それが二度、三度と続く。どうやら財津は、霧に身を隠して猛スピードでさまざまな角度から攻撃しているらしい。

 身を隠している鈴木は、霧に紛れて部屋から脱出しようかと思ったが、恐ろしくて身体が動かなかった。あの近衛という女の身体能力がいかにずば抜けているかは、その戦いぶりを見れば分かる。たとえ霧に紛れても、逃げる鈴木の気配を逃すことはない――気がした。

現に今、財津が霧の中から攻撃しても、近衛はそれをことごとく受け止めているのが、何度も響く金属音によってはっきり分かる。今は財津に任せてここに控えているのが得策だ。

「霧の中から、アタシの居場所がよく分かるもんだねえ」

「あなたはよくしゃべるので、すぐ分かりますね」霧の中から財津の声がした。「そうではないとしても、霧の中だからと言って逃げることはできません。気配を捉えて相手の存在を察知し、同時に自分の存在を拡散させる……いわばこれは【存在のマ法】なのです」

「存在とは恐れ入ったね!」

 近衛が叫び、また霧の中で数回の金属音が響いた。しかし彼女が反撃しようとする様子はない。どうやら財津の方が優勢らしかった。

「こないだ読んだ本に書いてあったよ――何かが存在するってなぁ、人を驚かせることだってね。なるほど、びっくりして感動するからこそ、存在とは何かってわざわざ問うたりたりするわけだ」

「哲学の話ですか? 私の【存在のマ法】は驚くに値しないとでも?」

「驚かないねぇ。アタシをびっくりさせて感動させてみなよ。人の心ってなぁ、そうやって動かすもんさ」

「ではあなたの【農法】は、私を感動させられるとでも」

「上等だよ」

 霧の中からそんな二人の問答が聞こえ、ヒュッと空を切る音が聞こえた。彼女が腕を振ったのだ。すると、彼女の周囲だけ霧が少し晴れたようになり、鈴木のいるところからも、近衛が何やら構えを見せているのが見えた。ウサイン・ボルトの勝利ポーズと似ており、なんだか場違いだ。

「さてお立ち合い」

 近衛が冗談めかして言う。そこで分かったのだが、彼女はガーデニングなどで使われる、移植ベラとか移植ゴテとか呼ばれるあの道具を手にしていた。それで財津の攻撃を受け止めていたらしい。

 その移植ベラが、突然光を放ったように見えた。妖火のような怪しい明かり――。

「なんだこれは」

 財津が霧の中から降り立つ。彼は鈴木を護るようにして前に立ち、近衛は何をするつもりなのかと警戒していた。

 そして、同時に鈴木は気付いた。部屋の霧が一気に晴れていったのだ。しかも室内はやけに暑く、汗が噴き出してきた。

「お、おい財津、おかしいぞ」

「分かっていますよ、社長」

 財津も、その妖しく青白い顔に汗を浮かべている。彼の場合それは、暑さのせいばかりではないようだった。

「信じられない。熱を発している」

 財津がぽつりと口にして、鈴木もようやく事態が飲み込めた。ポーズを取った近衛は、身体から熱を発しているのだ。手にした鉄製の移植ベラも真っ赤に焼けている。室内が温まったことで霧も晴れたのだ。

「何なんだあいつは、化物か?」

 鈴木が問うと、そうですよと財津は事もなげに答えた。

 近衛が、大きな口で歯並びの良さを見せつけるように笑ってこちらを向く。

「霧みたいな水蒸気はねえ、凍ると霜になって農作物も迷惑をこうむるんだ。農協で霜注意報が発令されると、あたしゃいつもこうやって火を焚くんだよ」

「ふ、普通に焚き火でもすればいいだろう!」

 鈴木が叫んで突っ込む。だが近衛は気にする様子もなく、

「どうだい、驚いたろ?」

 となおも笑顔を見せた。

「え――ええ、今のはさすがに。まるで、びっくり人間大集合を見ているような――」

 と、財津が動揺を隠せないまま答えると、近衛はあの場違いなポーズの状態からほとんど動かないまま、急に視界から姿を消した。ノーモーションで一気に財津の目の前まで接近したのだ。そしてまだ答え終わっていなかった彼の服をつかむと、背負い投げで社長室の床に叩きつけた。近衛のスピードが、さっき財津が【存在のマ法】で見せたそれを遥かに上回っているのは明らかだった。

 投げ飛ばされた財津は、うっ、と一声うめいて気を失った。

「頼む、殺さないでくれ」

 財津が負けたと悟った瞬間に、鈴木は命乞いをしていた。すると近衛は一瞬で彼の前に移動する。目の前に女の顔がいきなり出現して、鈴木はひっと悲鳴を上げた。

「アンタ、畑はやってるのかい? あるいは農業と関わりがあるとか」

 近衛は、床にへたり込んでいるターゲットの目の前で、腰に手を当てて仁王立ちになっている。それに対し、鈴木は声を震わせながら答えた。

「畑は――福島の親戚がやってた。子供の頃に手伝ったことがある」

「だろうね。でなきゃ、霜対策の焚き火なんて普通は知らないよ。福島ならおおかた桃あたりかい? ――果樹栽培を手伝ったことがあるなら、根っこから切り倒すことの虚しさは分かんだろ」

 意味が分からず、鈴木は返答に窮する。

「殺したって虚しいだけってことさ。いいかいよく聞きなよ。アンタ、他人に恨まれる心当たりはいくらでもあんだろ? あるいはナントカ損保から尻尾切りをされる可能性についても、言われれば成程って思うはずさ」

 鈴木は口をあんぐりと開けていた。

「まさか、あんたを雇ったのは――」

「おっとそれは秘密。アンタのあの行状じゃ、いつか誰かがアンタをターゲットにして殺し屋を雇うとしても不思議じゃない――その事実を示しただけさ。とりあえず話は最後まで聞きなよ。桃の樹を切り倒すみたいに、ここでアンタの命を奪うのは簡単さ。でもそれで救われる人間は意外と少なくて、ただ一部の連中が留飲を下げるだけだろ。そう考えれば、いっそアンタが潔く白状して、ナントカ損保も地獄への道連れにした方がなんぼかマシじゃないのさ。だから忠告するけどさ、ここは潔く償いな」

「償う、だと」鈴木は目を丸くした。「一体どうしろというんだ」

「そんなの、少し考えりゃ分かんだろ」

 言われた内容が意外過ぎたらしく、鈴木は目を白黒させながら尋ねる。

「じゃあ、一体あんたは何をしに来たんだ」

「だから、こうしてアンタを社会的に抹殺しに来たのさ。そもそもアタシはもう殺しには飽きてんだよ」

「うちの用心棒たちをこれだけやっておいて、何を言ってる!」

「勘違いしないでほしいね、アタシは一人も殺しちゃいない。そこの、財津だっけ? そいつも気絶してるだけだよ。まったく、みんな受身が下手だねえ」

「見逃してくれる……のか」

 鈴木は、目に希望の光をたたえる。近衛は顔を目の前に近づけて続けた。

「そう取ってくれても構わないよ」そこで目に力がこもり、声のトーンが低くなる。「ただ、今日から三日以内に償いのための何らかのアクションを起こさなかったら、その時は殺す」

「わ――分かった。分かった」鈴木は細かく何度も首を縦に振った。「殺さないでくれ……それだけは」

「よし、そうと決まりゃもう用はないね」

 近衛は明るい声で言うと、早足で社長室から出ていこうとする。出ていく直前、鈴木に人差し指を突き付けて釘を刺してきた。

「いいかい、今から三日以内だからね。モタモタするんじゃないよ。分かった? 鈴木茂太さん」

 鈴木ははい、としおらしく頷きながら、近衛の背中を見送るしかなかった。

 数十年ぶりに「モタモタするな」という言葉を浴びせられたというのに、なぜか妙に爽快な気持ちだ。ビキニ姿の美女から脅迫された上に罵声を浴びせられて心地好くなる、自分にはそんな性癖があるらしいことに鈴木は初めて気付いた。

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