第五章

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「うまいキュウリだな」

 牟田口微温八(むたぐち・ぬるはち)は、ボリボリと音を立てながらキュウリをかじった。近衛有明の畑で採れた、新鮮なキュウリである。

「お前さんも食べたら? この、味噌とマヨネーズの組み合わせが最高なんだぞ」

 テーブルを挟んだ真向かいに、敷島瑠璃が座っている。しかし彼女は手を出さなかった。

「私は結構です。もう、朝からたくさん食べてきたので」

「たくさん? そりゃ珍しい。お前さん、食事はビタミン剤だけでいいって人間だもんな」

「食べないとなくならないんだから仕方ないですよ」はあ、と彼女は嘆息する。「牟田口さん、田舎の農家はこんな量の野菜をいつも物々交換するんですか? 食べても食べてもなくならないんですけど」

 瑠璃はテーブルの横に置かれている段ボール箱をちらりと見やる。それは近衛有明から受け取ったもので、まだ半分くらいキュウリが詰まっていた。牟田口はそこから一本取ると、さっと洗って冷蔵庫から味噌とマヨネーズを持ってきてかじり始めたのだ。

「食べても食べてもなくならない程の量だから、誰かに贈与するんだよ。俺の実家は農家じゃないけど、よく近所の爺さん婆さんが余ったナスを持ってきてくれたもんだ。あれはどういう心理なのかねえ、たぶん別のものと交換したくて持ってくるわけじゃないんだよな」

 牟田口は首をかしげた。

 二人は、来客時に使う小さな面会室で椅子に座り、向き合っていた。牟田口は、ここBOUコンサルティング株式会社の課長で瑠璃の直接の上司にあたる。まだ四十代後半だがつるつるの禿頭で、本人曰く「大半は自然に禿げて、残りは潔く剃った」といつも説明している。

 コンサルティング業務はこの会社の表の顔だ。瑠璃のような殺し屋も所属しており、普段は営業や事務をやっているのだが、ときどき暗殺に駆り出される。そして暗殺部門の窓口をしているのが牟田口なのだった。

「で、近衛ちゃんの様子はどうだった」

「いきなり草刈り鎌を突き付けられたり、姓名判断を受けたりしました」

 そこからスタートして、瑠璃は近衛と会った際のことを説明した。出くわした直後の話をすると牟田口は笑っていたが、あの依頼状を渡した時の話になると、目つきが少し鋭くなる。

「じゃあ依頼は受けてくれたんだな」

「はい、あの様子なら大丈夫だと思います」

「ならよかった」

「あの、課長。近衛さんもうちの社員だったんですよね。私や課長と同じで――」

「そう、暗殺部門。ものすごいやり手で、あいつがいると他の連中の仕事がなくなるくらいだったな。どれほどガードが堅固な場所でも易々と侵入して、邪魔をする人物がいれば排除して、確実にターゲットを始末してた。最初は地方の支所勤務だったんだが、あまりにそっちの才能が突出しててすぐにここ――本所勤務になったよ。ただ、成績優秀だってことで昇進しそうになった途端に辞めていったんだな」

「評判は聞いてます。その働きぶりも、潔い辞めっぷりも、いまだに伝説ですよね。今はフリーでやってるみたいですが……」

「近衛ちゃんが辞めるって言いだした時は俺も引き止めたんだけど、聞かなかったな」牟田口は懐かしむ口調になった。「おかげで、あいつに仕事を依頼するときは外部委託形式にせざるをえなくなった」

「今までも、その、外部委託形式で依頼してるんですか」

「いや今回が初めてだ。今回のターゲットは用心棒の数が多くて手強そうだったからな。特別だよ」

「スーパーモータースですか。じゃあ【法】の使い手もいるかも知れませんね」

「可能性はあるな。実際、別のところで送り込んだスパイが【法】の使い手にやられたという話もあった」

 【法】、それは殺し屋や用心棒が大勢ひしめくこの界隈で、それぞれが持つ特殊戦闘術の総称である。【法】にはさまざまなものがあり、何らかの理由で子供の頃から身に付けている者もいれば、BOUコンサルティングに所属している多くの殺し屋がそうであるように、就職先の研修で身に付ける者もいる。いずれにせよ、この業界では必須のスキルだ。

「近衛さんの使う【法】は、確か【農法】でしたね」

「そうだ」牟田口は大きく頷いた。「近衛自身が伝説なら、あいつの使いこなす【農法】もすでに伝説だな。明治時代まではまだ使い手がいたらしいが、今は近衛以外に使える奴は日本国内のどこにもいないらしい」

「そんなの、近衛さんはどこで覚えたんですか」

「それが、誰も分かんねえんだ。俺も近衛ちゃんと一緒に働いてた時、何度も聞いたんだけどぜんぜん教えてくれなくてな。ただ一度だけヒントとして、『究極の暇人から教わった』って言ってたっけ」

「究極の?」

 たぶん、牟田口がしつこく聞くので辟易してヒントだけ与えたのだろう。この男はセクハラやパワハラの類は一切やらないものの、他人にものをねだったりお願いをする時は少ししつこい。

「農法っていうからには、最初に【法】として完成させたのは農家だと思うんだけどな」

「そうとは限らないですよ」

 瑠璃は突っ込んだ。それぞれの【法】は、その法の大成者の属性や氏名から一文字取ることもあれば、その技の特性を象徴する文字がつけられることもある。マネージャーが大成した法なら【マ法】と呼ばれることもあるが、一方で悪魔的な術であれば「魔法」と名付けられることもあるだろう。その名付けに法則はなく、総じていい加減だ。そのことは牟田口も分かっているはずだ。

「まあ、それもそうだな」

「こうやって、家庭菜園をやってるのも関係あるんでしょうね」

 瑠璃が段ボール箱のキュウリを見やると、牟田口は頷いた。

「多分、大有りだろうよ。実際、近衛ちゃんの暗殺テクと農業は関係が深いからな。フリーになって仕事が減ったとはいえ、家庭菜園でもやってないと腕は鈍るさ」

「五摂家とも関係あるんでしょうか」

「ごせっけ? ああ、近衛だからか」

 瑠璃の記憶だと、近衛という姓はかなり由緒正しいものだったはずだ。関白や摂政になることが代々決まっている五つの名家が五摂家で、近衛はその中でもかなり上位だったように思う。

「もしかすると、そう考えると農法を近衛さんに授けたのは『高貴な方』かも知れませんね。瓊瓊杵尊は五穀豊穣の神ですし」

「ニニギ、ってか。お前もマニアックなこと知ってるな」

「本当は事務仕事や殺し屋稼業よりも、本を読んでる方が好きなもので」

「近衛もそういうタイプだったよ」牟田口はもうキュウリを食べ終わりそうだ。食べながら、よく淀みなく話せると思う。「天皇陛下から【農法】を授けられた可能性か……。しかし、天皇陛下って近衛が言うような究極の暇人なのか? むしろ神事やら国事行為やらイベントやらで息つく間もないイメージだけど。平成の終わりなんて、今上天皇がビデオメッセージで音を上げてたじゃん」

「違いますかね」

「ちょっと違う気がする。天皇陛下が手裏剣使うかなあ」

「手裏剣? 近衛さんって手裏剣を使うんですか。じゃあ、忍者じゃないですか」

「まあ、昔の忍びの者は農家になりすますこともあったっていうからな。関連付けようと思えば、できないこともないか」

 牟田口は腕を組んで考え始めた。自分の記憶の中の近衛有明が、忍者のイメージと重なり合うかどうかを頭の中で吟味しているのだろう。だがそれは難しいだろうと瑠璃は思った。ビキニ姿の間諜なんて想像もつかない。

「言ってみただけです、気にしないで下さい」瑠璃は笑った。「昔から言うでしょう――理屈と膏薬はどこにでもつくって」

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