第20話 たぷたぷ

「何でも好きなもの頼んでいいぞ」


 梧桐先生がメニューを顔の前で開いたまま、鷹揚にそういった。


「ど、どうも」


 入稿作業が終わって、あとは印刷所へ発送するだけ。データをメディアに焼きこんで、今日は解散。そのあとなぜか僕だけが、先生に声をかけられて洋菓子店「弧漫堂こまんどう」へと連れて来られているのだった。


 店は校門前から伸びる、五十メートルほどの緩やかな坂を降りたところにある。辺りはもうすっかり日暮れて、十二月の冷たい夕闇が降りていた。


「コーヒーと……クロスタータってのが美味そうだなあ」


 バターたっぷりのパイ生地でジャムを包んだ、家庭でも割と気軽に作られるお菓子だそうだが、メニューに添えられた説明ではなにやら王侯にまつわる逸話もあるとか。


「ふむ、私もコーヒーだ。お菓子はブラン・マンジェにしよう」


 こっちはええと、なんか白いプリンみたいなやつみたい。


「食べるんですね……」


 実は先輩もここにきている。梧桐先生に声を掛けられた僕になぜか素早く反応して、髪の毛で僕の腕に巻きついたのだ。先生もなんとなく察してはいるらしかった。


 先生はそんな僕たちの様子を――先生視点なら僕の様子を――せいいっぱいに作り上げたような穏やかな表情で見ていた。


「化野と、仲良くしてくれているんだな」


 ふうっと、長い長い溜息。


「はい……たまに自分でも『おかしいな』って思うんですけど……なんかこう、慣れてくるとそれが自然に思えるっていうか。『生首だから? それがどうした』って気分になってきて」


「うん。僕もそうだった。三年の秋までは」


「秋まで……? 何かあったんです?」


「いや、特に何も。ただ受験が近づいてたし、当時はまだ戦争もぎりぎり終わってなかった。現実が追いかけてきて、それに捕まってしまったというか、な。化野が一緒に来てくれないことは元から分かってたし」


 先生の視線が僕の周囲をぐるりとサーチしたのが分かった。先輩が来ていることは察しているし、恐らく奢る気もあるのだろう。


「本当に未練がましい奴だなあ。さっさと良い相手を見つけて結婚しろ。そろそろシャレにならん齢だろうに」


「先輩にはそれを言う権利はないと思うんですが」


「やれやれ。化野が君に何を言っているか、おおよそ見当がつくのがやり切れんな……」


 先生はクスクスと笑い、傍らの呼び鈴を鳴らした。店員がすぐにやって来て、僕たちの注文を聞いた。


 ――ホットコーヒーを三つ。それにクロスタータとブランマンジェ、粒あんホイップサンドをお一つづつですね?


 てきぱきと手元の端末に注文を入力すると、滑らかな足取りで狭い店内を横切ってカウンターへ戻っていく。


「まあ、僕には……化野とずっとともにいる覚悟はできなかった。覚悟したところでどうなるものでもなかったが、結局普通の人生を選んだんだ……袴田」


「はい?」


「僕からは、この件については何もしてやれん。何回も繰り返されてきたことだが、その時が来るまで悔いが無いようにやれ、としか言えん」


「はい」


 暖かな助言――そんな風に聞こえたが。


「ふん、こいつめ……袴田君。梧桐君はな、『どうせこいつも自分と同じ選択しかできない』と思って安心しているようだぞ。君からガツンと何か言ってやれ、何か。ガツンと」


「ガツンガツンって、そんなプレス機みたいな圧で板挟みにしてくるの、やめてくださいよ……実際そうするしかないんでしょうに」


「……僕には聞こえないが、どうやら化野の毒舌は、十五年前と少しも変わってないみたいだなあ」


 先生が笑って、次の瞬間うつむいた。


「僕ら人間には、とてもじゃないがそんなに堅牢でいることはできない。どうしたって衰えるし、それにつれて弱気にもなる……覚悟ができても結局は無理だったろうな」


 うつむいた先生の顔の横に、コーヒーカップとソーサーがごとりと置かれた。続いて僕たちの前にもそれぞれの飲み物とお菓子が。

 先ほどと同じその店員は、テーブルの上を怪訝な顔で凝視してぱちぱちと数回まぶたを瞬いていたが、結局真相を知ることなくその場を離れていった。


「おお。久しぶりだな、ここのブラン・マンジェ。この重量感と弾力が実にたまらん」


 先輩が相好を崩す。位置関係的には、先輩の顔の真ん前、ほんの十五センチ程度の距離に大きな白い山がそびえている形。それがわずかな振動を受けて、たぷんと揺れた。


「前にも来たことあるんですか」

 

「もちろん。生首だけひとりでは客と認識してもらえないから、誰かが同伴してくれないと無理だが――袴田君、角砂糖は幾つにするね?」


 はて、もしや入れてくれるんだろうか――でも先輩に手はないな?


「……二つで」


「じゃあ私のにも二つ頼む」


 僕が入れるのか。分かってましたけど、何だよくっそぉ。


 それぞれのコーヒーに角砂糖とポーションミルクをぶち込み、先輩の口元にカップをあてがって飲ませ、次いでぷるぷると揺れる白いゼラチンをスプーンで赤い唇へ押し込む。

 生物学的に考えれば血流があるはずがないのだが、先輩のうなじはしっとりと温かくわずかに汗ばんでいて、柔らかな頬はブラン・マンジェ顔負けのはかなさと弾力を有していた。

 

「あの。先輩に食べさせてると、僕ぜんぜん食べられないんですけど」


「そうか。クロスタータなら焼きたてでなくてもいけるし、私もまだ大丈夫だぞ」


「あげませんよ!」


「お前らホント、仲良いんだなあ」


 ジャム入りパイの載った皿を大げさな身振りで先輩から遠ざける僕を見て、先生が我慢できなくなったように吹きだした。


 ――君の時も同じだったよ、梧桐君。


 びっくりするような優しい声で囁いた先輩の声は、やはり梧桐先生には届いていなかった。

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