第17話 額縁

「『小文化祭』プロトコルの発動だな、こりゃ……」


 北原がそう言いながら端末を手にした。旧校舎に出現した怪異は、ほとんどの場合僕たち文化部員が何らかの芸を見せることで、中和されたようになって霧散するのが普通だ。

 その芸の応酬を僕たちが『小文化祭』としゃれて呼んでいるのは既に語った通りだが――


「北原、どうした?」


「え?」


 異常発生時に通達を出すのは大抵の場合、北原の担当だ。つまり、現役生徒としては北原こそが、文化部連絡会の中でも最もこうした事態に慣れているはず――だというのに、彼の手は端末を掴んだまま小刻みに震えている。しかも、彼自身がそれを意識できていなかった。たった今までは。


「俺、手が……なんで」


 とまどう北原はどうにか手の制御を取り戻し、端末の操作をしようとしたが、次の瞬間。

 

「な、何だコレ……?」


 小さな悲鳴が上がる。肩越しに端末を覗き込むと、画面には真っ白な背景にメッセージがわずか三文字、だがとてつもない圧迫感を伴って縦書き表示されていた。


  無  駄  だ 

 

「無駄ってどういうことだ……いったい誰がこんな?」


 混乱した北原をよそに、僕はその「女子生徒」を注意深く観察した――立ち上がりはしたものの、特にこちらに何かしてくるような様子はない。

 

(この能面。確か華道部や茶道部が使う和室の、鴨居に掛けてあったような……確かこれ、『痩男やせおとこ』ってんだっけ。それと、この制服は……!)

 

 同じだった。化野先輩が普段、文芸部室の机の上でクッション代わりにしているのと同じ、黒地にえんじ色のラインが入ったセーラー服だ。


「こいつ……! 文芸部、こいつはいつものとは違うみたいだ! 送信がブロックされてる……」


「マジか」


 北原の言葉は由々しき事実を告げている。

 文化部員である以上、広報部員の作成する「記事」も芸の範疇に入る。さすがに退散させるまでには至らないが、ちょっとダメージくらいは入る(だからこそ妨害されずに送信できる)のが通例なのだ。それがブロックされるとは。


 ――そりゃあそうだ、無理もない。こいつには実体の依代よりしろがあるようだからな。

 

 先輩の声が奇妙な距離感で聞こえた。どこかへ移動しているのか? 

 声のする方を視線で探ると、先輩の生首は高浜キョシの手元を離れ、浮遊したまま廊下に出るところだった。

 

「せ、先輩、どこへ!?」


 さっきのようにちょっと跳ねるくらいならともかく、こういう動きをするときの先輩は本気のはずだ。

  

「……音楽室へ行って来る」


「行ってくる、って……まさか、これ先輩でも駄目なんです?」


 先輩がそれを聞いてちょっと心外そうな顔になった。頬を膨らませてこちらを睨む

 

「袴田君、私がお手上げになって逃げるとでも思っているのか……ちょっとひどくないか? まあいい、相手は私が旧校舎にかけてる網の目を押し広げて出てくるような奴だからな、対抗上、旅行のあいだ割いておいたリソースを回収しておこうと思うのだ」


「割いておいたリソース……? あっ」


 そういえば、と思い出す。先輩は留守中の校舎の守りを「ベートーベンに頼む」とか言っていなかったか。

 

「高浜君、一緒に来てくれ。できれば手が欲しい」


「あっ、は、はい!!」


 高浜キョシは宙を飛ぶ先輩の生首を走りざまに手元に確保し、そのまま廊下の奥へと駆け出した。

 

「あの、僕たちはどうすれば!?」


 ――対峙して、時間を稼いでくれ!

 

 足音と共に声が遠ざかる。僕と北原は、互いに顔を見合わせて「ええ……」とうめいた。

 

「セーラー服痩せ男」はただじっとこちらに向けて立っている。何をする気なのかは分からない。分からないが油断してはなるまい。だが何の対抗手段もないであろう僕たちは、これと何分間向き合っていればいいのか?


 痩男という能面は割と不気味だ。骨の上に薄く皮を張り付けたような、生気のない容貌を写していて、だいたい亡霊などの役に使う、と聞く。そいつが首から下にセーラー服を着けて立つ姿は、滑稽さもありつつ僕たちの恐怖感を強くあおった。


 訳の分からないものが、人間には一番恐ろしい。固唾をのんで能面と視線を合わせ、わずかの隙も見逃すまいと張りつめていると――化け物の右腕がすうっと動き、その指先がまっすぐに僕を指した。


(クソ、反応できなかった!!)


 こちらへ向かって突き出された腕から、何かが放たれるのか。そう思った次の瞬間、そこに、はらりと現れたものがある。先ほどこいつが何か書きつけていた原稿用紙だ。


 ――よめ。


 鼓膜を振動させることなく、空気ではないものを伝って頭の中に声が響いた。読め、と言っているのか? つまり、あの原稿を?


 そこへ、先ほど音楽室へ向かったのと同じスリッパ履きの足音が響いた。高浜キョシだ。先輩と一緒に、帰ってきたらしい。左の小脇に、何か大きな平たいものを抱えて。


 ――そら、着いたぞ。つべこべ言わずに、私に力を戻せ……! この化け物を調伏せねばならん!


「いーやーじゃぁああーーーー!」


 高浜が掲げたその物体から、壮年の男の声が響いた。同時に物体はくるりと回り、面積の大きな正面がこちらを向く。

 

 それは簡素な額縁に収められた、楽聖ベートーベンの肖像画だった。遠目には何とか油絵に見えなくもない写真製版の複製品だが、あたかも生きているように眉や唇を動かしていた。

 こいつは絶対に本人ではあるまい。なんとなればルートヴィヒ・ファン・ベートホーフン(標準ドイツ語準拠)は、純然たるドイツ人なのだから――

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