年末と年度末の間編
第15話 猫
「ねえねえ、知ってる?」
いつものように部室に入ると、
「なんだよ。隣の空き地に塀でもできたみたいに」
「かっこいー、っていつの時代のギャグかな? いやそうじゃなくてさ」
高浜はパチ、と片目をつぶると何かとてつもない秘密でも明かすように耳打ちしてきた――こいつは割とこういう、他人との距離感がおかしいところがある。
(例の猫がさ。子供産んだんだって!)
例の猫。何だ、そりゃ?
* * *
曰く。旧校舎に最近、どこからか猫がやって来て住み着いた――
僕はまるっきり知らなかったわけだが、旧校舎の文化部員たちの間では、少し前、だいたい旅行に行く直前くらいから皆の関心ごとの一つに上がっていたらしい。
校舎南側に設けられた花壇の隅、建物との間のごく狭い一角に、使わなくなった植木鉢やプランターが放置されている。
そんながらくたの間をねぐらにしていたその猫だが、どうやらお腹に子供がいたようだ。昨日たまたまその猫を見に行った美術部の女子が、みゃあみゃあと鳴くか細い声を聞いたとか。
「エサはね、何人か猫好きな子が持ち寄って与えてて、心配いらないみたい」
「まあ、話は大体わかったけど。それを僕に話して、どうしろと……」
そりゃもちろん、と彼女は満面の笑みを浮かべた。形のいい唇からギザギザの歯列がぞろんと覗く。
「見に行くのよ! 行こうよ! ちっちゃい仔猫なんてこのご時世、そうそう見たり触ったりできないんだから!」
「いやいや、やめとけよ……子育て中の動物は神経過敏だっていうし、トチ狂って引っ掻かれでもしたら危ないだろ」
「大丈夫っしょ」
やめとけって。屋外で暮らしてる動物なんて、クッソ不潔だし爪にどんな病原体くっつけてるか分からないし――
内心でそんな独白をしていると、完全に意識の死角に入っていた方向から、安物のヘッドホンを通したようなビリついたアルトの声が聞こえた。
「猫……? 猫、見たい……」
「あ、先輩」
窓際に置かれた机の上で、十一月末の頼りない陽光に包まれていた美貌の生首。化野先輩が、眠そうに目を開けてこっちを見ていた。
「ううん、まぶたが痒い。時々自前の手が欲しくなるね……」
博多人形のような色白の肌に刻まれた切れ長のまぶた、眼のふちは涙にかぶれたように赤みを帯びて潤んでいる。頬にも赤みがほんのりさして、妙に子供っぽく可愛らしい。
その先輩に猫を見たいと言われれば、僕にはもはや抗うすべなどないのだった。
そこには取り換えたばかりらしい水の容器が置かれ、入院食の朝ごはんを盛るような幾つかに分かれたくぼみのあるトレーの上に、小魚をかたどったお手軽なドライ餌が盛られていた。
「行き届いてんなぁ」
先輩を小脇に抱えたまま、その場にしゃがみ込む。猫の居場所はすぐに知れた。横倒しに置かれた大きめのプランターに、中の土が流れ出して残ったふわふわした枯れ草とひげ根の塊が中途半端に詰めこまれている。その奥で、サバ白の毛並みをした黄色い目の若いメス猫がこちらをうかがっていた。
「にい」とも「ぴい」ともつかないか細い声が複数重なって聴こえ、高浜の相好がだらしなく崩れる。
「いましたよぉ。ネコチャン……ネコチャン」
「こりゃあ、まだ絶対に触れないな」
日当たりのいい場所だし、枯草の塊は仔猫たちにとって格好のベッドだろう。ここ数日はいい天気が続いていたし、何も心配はいらなかったことだろうが――
「少し湿った風が出てきた。これは、遠からず雨になりそうだぞ」
僕の腕の中で、先輩が首をごろりと蠢かせてそうのたまった。
「それは、まずいですね」
雨が降りだしたらここはあっけなく濡れてしまうし、降水量によっては水が溜まってしまうだろう。さて困った。親猫は幾分気が立っているようだし、仔猫たちは仔猫たちで、こっちが移動を手伝えるような段階ではない。
「手が無いのは実にもどかしいな、猫一つ撫でられん。だが、せっかくこの旧校舎に身を寄せたのだ。私ができる限りの方法で、助けてやりたいものだな」
先輩は僕を促して、頭部を親猫の方へぐっと近寄らせると、何やらぶつぶつと、人語とも思えない聴き取りにくい声で囁き始めたのだ――猫に向かって。
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