第12話 湖
スリリングな夢だったが、所詮夢ではある。
巨大先輩がどちらへ転がりだしたかは結局定かならぬまま、僕は朝の陽光にまぶたを灼かれて目覚め、大座敷で皆と一緒に朝食を摂った。
先輩は僕たち、大文字学園の生徒にしか視ることができない――そういう風に、周囲の人間の認識を操作しているらしい。なので座敷には先輩の席もなければ用意された食事もないのだが、彼女は座卓の下や周囲を自力、あるいは部員たちの手を借りて移動して回り、お弁当を忘れた子の昼休みよろしく、皆からご飯やおかずを貢がれていた。
「先輩、田楽の里芋もう一個どうですかー?」
「ふふ、君たちはまことに優しくてありがたいな……帰ったらまた、文章の添削やアイデア出しの相談に協力してあげよう」
「えへへ、化野先輩は人生経験豊富だし、古い韻文の素養とかもばっちりだから助かりますよぉ!」
他の部員達からもあれこれと持ち上げられて、先輩は得意満面。なんだかんだで慕われる生首、というシュールな図式に、ふっと苦笑しながら視線を彷徨わせると、座卓の反対側に座っていた梧桐先生が目に入った。
先生はどこかひどく安らかな顔で、座卓の一隅に集められた小皿と、そこから十センチばかり上の虚空へ一つまた一つと消えていく朝食の断片を眺めていた。目に見えなくなってしまったかつての女友達が、そこに存在しているということの証――気持は分かる。僕は先生に深く同情した。
卒業する時が来なければいいのに、と思った。
さて、その日僕たちは起雲閣や双柿舎といった、日本近代の文豪たちが愛した宿や邸宅、岩波文庫の創業者が立てたとかいう別荘などを見て回った。鶺鴒荘はもともと、その岩波氏の別荘「惜櫟荘」に、名前と内装を似せて作られた建物だという話もあるそうな。
あろうことか先輩は、去年たまたまの中止を除けば毎年このコースでの旅行に参加しているらしいのだ。それはもはや、ガイドなど不要になる段階だろうと思われた。
貫一とお宮の像も見た。笑ってしまうくらい大味な、通俗イメージそのままの代物で戸惑いすら覚える。
「うーん……」
「どうしたのだね、袴田君?」
先輩が僕の肩の上から声をかけてくる。彼女は今日もサッカーボールか何かの風を装って、例のボールネットの中にいた。
「えっと。なんかこう、しっくりこないんですよね……」
僕の携帯端末の中には書きかけの短編小説があって、それはこの熱海旅行にちなんだものになるはずだった。
だが昨日の経験もあって熱海という場所のイメージは、僕の中でおかしな方向に歪みつつあった。それがどうも筆を進みづらくさせているようなのだ。そのことを先輩に打ち明けると、彼女は「なあんだ」とつまらなそうに一笑に付した。
「そんなもの……君自身が持ってる、君の中のイメージに忠実に組み立てて描けば済むことじゃないか」
「そ、そうですかね」
「そうだとも。歴史小説を書こうという訳でもないんだし、客観的な事実に即している必要などない。歪んだのなら勿怪の幸い、思いっきり歪めてやりたまえ」
僕がうなずくと先輩は肩の上でうなずいた風にもぞもぞと蠢き、「次の部誌が楽しみだ」と嬉しそうに鼻から息を吐いた。
――ダメだー、川柳にしかなんない!
高浜はそう叫んで仁王立ちのまま腕を組み くいっと顔を像からそむける。正岡も西日に染まった海に目を細めながら、「このカップルは
その夜は特に変わったこともなく再びの朝。僕たちはマイクロバスに乗り込んで帰路についたのだが――出発直後に椿事が発生した。運転手がカーナビに目をやって、ちょっと取り乱した顔をした後、減速してバスを路肩に停めたのだ。
「どうかしました?」
先生がそう訊くと、運転手が答えた。
「予定してたビーチラインのルートですが、急に通行止めが発生したみたいなんですよ。どうも、異常が起きたとかで」
――ありゃ。
バス内が少しざわついた。まあ、珍しい事ではない。
道路はどこからどこまでがどこの所属、ということが難しく「守護」が存在しない区間も少なくないし、もともと普通の事故だって一定確率で起こるのだ。
こういう時は公共の専門機関が対処するようになっているから、しばらく待てばルートも復旧するはずなのだが。
「仕方ない、それじゃ迂回してください……そうだな。芦ノ湖方面から旧東海道へ抜けてください。時間には余裕あるし、どこかで休憩してもいいな」
梧桐先生は少し考えた後、そう言ってルート変更を指示した。バスが走りだすと先輩が、どこか愉快そうに僕にささやいた。
「今梧桐君が言ったルートだと、箱根のお玉が池に差し掛かるな……知っているかね袴田君。あそこも、生首にゆかりのある場所なんだ」
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