第6話 眠り
――すぴぃ……
「ん、この音……」
いつものように部室へ顔を出した、とある放課後。静まり返った部室に奇妙な音がこだましていた。
普段なら、先輩風フルパワーで先輩が迎えてくれて、そこから彼女のペースに引き込まれるのだが、今日は。
先輩は首の断面になまめかしい肉色をのぞかせて、机の上で横倒しに転がっていた。
今までのところ結局どこの誰のモノとも判じがたいあの黒いセーラー服を
ただ、先ほどから聞こえる件の反復音が、その印象を台無しに裏切っている。つまり、彼女は僕の前でふっくらとした白いまぶたを閉じ、非の打ちどころなく完璧な、洋弓型の曲線を描く唇を半開きにしたまま、鼻孔からすぴすぴとかすかなさえずりを上げて眠っているのだった。
「こうしてると、首から下がない以外はホント、たわいもなく可愛い女の子そのものなんだよなあ」
ため息とともに声に出して内心を吐露した。自分の感性が少々おかしくなっているのは、むろん自分でも理解できている。
振り返ってみれば、入学から数日後に文芸部室のドアを叩いた僕がここで初めて先輩に遭遇した時も、彼女は同じように
あの時は
先輩の頭の位置に対応したところにある、と仮想した不在の「椅子」のすぐ横に、別の椅子を引っ張って来てそこに腰を下ろした。
上体を机の上にだらんと投げ出して脱力し、組んだ両手の上に載せた頭を、ぐにゃりと先輩の方へ向けて寝顔を覗き見る。
「……無防備だなあ」
彼女に首から下があったら、こんな大胆なふるまいはできただろうか。ちょっと自信がないが、実行に移したとしたらそれはきっと幸せな気分に違いない。
この隙にキスでもしてみようか、などと不埒な考えに耽りかけたその瞬間。まさにその半開きの唇から、つうと透明なよだれが一滴、下向きになった側の頬を伝って流れ落ち――
「やっべ」
折よくそこにあった箱ティッシュを一枚とって、頬とその下のセーラー服との間に手を伸ばした。危ういところで、服がよだれで濡れるのを阻止。
誰のものかも知らないが、そもこの学校の制服ですらないし、いつも洗濯が行き届いてきちんと畳まれているものだ。自分の涎で汚したなどとなったら、先輩はさぞや落胆するだろうと思えたから。
だが、頬に与えられたわずかな圧力は、化野先輩を微睡みから呼び覚ますのには充分なものだった。ぱちりと眼が見開かれ、その焦点がこちらに合う。
「あっ……」
常にも増して赤みを帯びる、眼の下側の薄い皮膚。いく房かの髪の毛が生き物のように動いて机の脚や椅子の背に絡みつき、先輩(の首)は逆さにした花瓶のように見事なバランスでぴょんと机の上に立ち上がった。
いったん吞み込んだであろう彼女の息が、頭の中を一回りしたように戻って来て、言葉となってほとばしる――
「ばっ、バカ! 人が寝てる間に何をしてるのだ! 袴田君のえ、えっと、え、え、えっ、エッチ!!」
心外である。いや、確かに不埒な気持ちは抱いたけれども。
「エッチとか言われると傷つきますね。よだれ拭いてあげたのに……」
「……睡眠に乗じて異性に添い寝めいたことをされた挙句、身体の開口部からこぼれた液体を拭われるとか、エッチでなくて何だというのだ」
「い、言い方ッ! じゃあ訊きますけどそのセーラー服、よだれでぐっしょり濡れても良かったです?」
「……ううっ。それは確かにちょっと、いやかなり嫌だが」
先輩はジト目でこちらをにらみながら「あんなことされたらもうお嫁に行けなくなるじゃないか」とか小声でつぶやいた。
……行く気があるのか、まさか。
「よだれ拭いたくらいでそこまで言われるんだったら、キスでもしちゃえばよかったかなぁ」
「それはさらにダメだ、やめてくれ。君たちはいずれ卒業して私を認識できなくなる――梧桐くんのように」
そうなれば――と言葉を濁す先輩を見て、僕もその先にある論理の帰結に気付いた。
「あ、責任とれなくなりますね……」
「そうだ。責任をとれない相手とそういうことはすべきでないだろう?」
真顔で言う先輩だった。どうやらだいぶ彼女の急所に踏み込んでしまったと気づいて、謝罪しながら僕は椅子を引いて先輩から距離を取った。
困ったことに、しばらくの間先輩の顔からは赤みが去らず、少し遅れてやってきた
その夜、僕は体のある化野先輩と二人寄り添って、芝生に寝転ぶ夢を見た。
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