第2話 食事(feat. キョシ&シキ)

 湯沸かしポットのお湯をカップに注ぐと、コーヒーの香りが部室いっぱいに漂った。

 化野先輩は深々と息を吸い込んで――肺はどこだ、という疑問が頭をもたげるが――満足そうに目を細めた。

 

「戦争中はコーヒーもろくなものがなかったが、昨今は大分良くなったね」


「ですかね」


 僕はちら、と先輩の方へ視線を向けて考えた。

 彼女は本人の言う通りなら百年近くここに居座ってるはずだし、戦争と名のつくものも複数経験しているはずだ。だが取りあえず今の話題で指しているのは、僕らが生まれた後しばらくして終結したやつのことで間違いないのだろう。

 

「……僕は戦前のコーヒーは飲んだことないですけど」


「私もまあ、君たち部員が持ってくる物しか知らないわけだが……まあ、年とともに味が良くなってるのは確かだよ」


「そりゃあ、よかった」


 両親の世代が味わった苦労を考えれば、僕らは幸せなものだ。なんたって、成人と同時に軍に編入されるようなことはもうないのだし。

 

「空震大戦」と呼ばれているそれは、人類がそれまで経験したことのない類のものだったらしい。

 世界中のあちこちでどこからともなく現れた敵対者の軍勢。彼らは姿こそ紛うことなく人間ではあったが、それまで歴史上存在した如何なる国家にも、民族にも文明にも属していなかったというのだ。

 

 終結と前後して彼らは再びいずこともなく消え去ったが、あとに残された世界と人類の前には、大きな課題が残っていた――

 

 ――カラン、コロン


 部室の入り口につけられたやや不似合いな音のドアベルが響き、新たな来訪者が現れる。学園の本来の制服である、青緑のブレザーを着た女子が二人だ。一人は黒髪で実年齢をかなり下回る印象の童顔、もう一人は長身をやや猫背気味にかがめた、色素欠乏アルビノと見まがう髪と肌の色。

 

「やあ、高浜さんに正岡さん。先に始めさせてもらっているよ」


 先輩は気さくな調子でそう言うと、二人の方へ小さく顎をしゃくって着席を促したようだった。

 

「はーい、お邪魔しまっす。すみません、遅くなって」


「うん、珍しいね。何かあったのかな?」


「校門脇の弧漫堂コマンドーでフロランタン買って来たんですよぉ」


「ほぉ」


 食べますか、食べますよね? と会話が加速してどこかへなだれ込み、部室の中は突発お茶会と化した。僕も有り難くご相伴に与る。二人は僕と同級の二年生で、いつも二人でつるんで行動しているとは知っている。

 

 黒髪童顔は、高浜青葉たかはま・あおば。魅力的な容姿で成績優秀、スポーツも得意と人気者の素質満載だが、唇を開くと口元に並んだ歯がサメよろしくギザギザに尖っている、という、やや大きめの瑕瑾がある。ついたあだ名は「鋸歯」――キョシ、と読む。

 

 長身白髪は正岡四季まさおか・しき。低血圧でいつもローテンション、姿勢も悪くてぱっと見の印象は芳しくないが、何かの拍子に気合が入ると、この世の者とも思えない(いろんな意味で)絶世の美少女に変身する。どこかの失礼なクラスメートが付けたらしいあだ名は、読みもそのまま「屍鬼」――シキ、だ。

 

 二人合わせて「たかはまきょし」と「まさおかしき」。へちまが下がったりホトトギスが鳴いたりはしないが、ともかく二人は実際に俳句をたしなむ。

 名前に引っ張られたり合わせたりというわけでもなく、ただその形式が好きだ、というのではあった。


「袴田君。すまないがコーヒーとフロランタンを、私の口に適宜サーブしてくれないかね」


 化野先輩がひどいことを言い出す。まあ、先輩は可愛いので全くやぶさかではないのだけれど。

 

「いいですけど、先輩って一応髪の毛でもの掴んだりできませんでしたっけ」


「できるけど、疲れる」


 そう言われると、まあそうだろうなという気はする。汚れたり濡れたりすると、洗うのも大変だろうし。

 そういえばフロランタン、アーモンドが歯に詰まったりしないだろうか。あとで歯を磨いてあげるべきか――

 

「先輩って、食べたものどこへ行くんですかね?」


 彼女の首の断面は、見せてもらったことがある。何というか、生ハムの断面のような透明感のある肉色だが、のっぺりとしているだけで頸椎とか血管とか食道とか、そんな具体的なものは何も見えない。

 

「わからん」


 前にも何度か繰り返した会話だった。その都度先輩は眉根を寄せて考え込むが、どうにも納得のいく答えは自分でもつかめないらしい。

 

「永遠の謎かも知れないな。まあ、何か食えば満たされる感覚はあるのだが……胃、ではない気がする」


 胃があったこともあるのかもしれないが、その時の感覚などとっくに忘れてしまった――彼女はそういうと、口元にコーヒーと菓子を運ぶ僕の指を、快さげな顔で受け入れた。ちろり、とその舌が僕の指先をかすめる。

 

 どきっとしたがそのまま平静を装って何食わぬ顔。

 僕たちはそのあと、当直の先生に追い出されるまで、年四回発行の文芸部誌「大の字」の編集方針についてだらだらと意見を交わした。

 

 戦前に在ったとかいう、遠隔管理の警備システムなどというものはまだいっこうに再建できていないのだった。

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