第17話
その後、馨子は二日間ほど寝込んだ。
憑依されたからではなく、綺羅が大立ち回りを演じてくれたおかげで、体中が痛くて仕方がなかったのである。人の体は空を飛ぶようには出来ていない。
緋月はいつにもまして甲斐甲斐しく馨子の世話を焼き、その原因かもしれない綺羅に対しては風当たりが強かった。
「貴様のせいで馨子様は伏せっているんだぞ? 少しは反省しているんだろうな?」
「してるよ。だからこうして手伝ってるんじゃないか」
桶の水を変えたり、食事を運んだり、綺羅なりに屋敷の仕事をしている。けれど、緋月にはまだ彼が許せないらしい。
「馨子、早く元気になってね。君が寝ているとつまらないよ」
「主を呼び捨てにするな。馨子様と呼べ」
「鬼のくせに言うことがいちいち細かいな。緋月はやっかんでるだけだろう? 馨子に憑依したということは、言ってみれば一心同体。僕は馨子とひとつになったんだからね」
「貴様、皮をはいで襟巻にするぞ。そのほうが馨子様のお役に立つだろう」
「神に対してその物言いは不敬じゃないか」
「元神だろう。零落した神が、なにを偉そうにほざいている」
「……二人とも、お願いだから仲良くして」
険悪な空気のせいで、ますます具合が悪くなりそうだ。
これでは先が思いやられる。二人の主人として、自分もしっかりしなくてはと馨子は気を引き締めた。
女学校に登校できたのは、妖狐の事件から三日後のことだった。
いつものように緋月に送ってもらい登校すると、そこには元気な晶子の姿があった。
「馨子さん、具合はもういいの? きっと、お見舞いに来てもらった時に私の風邪がうつってしまったのね」
顔色も良く、いつもの晶子に戻っている。馨子とは違い、妖狐に憑依された時の記憶はまったくないようだった。
「でも、もう大丈夫よ。晶子さんのほうは、その後変わったことはない?」
「お陰様で何も問題ないわ。以前より健康なくらいだし、我が家の株価も安泰よ」
「それなら良かったわ」
憑依による後遺症のようなものもなさそうなので、馨子は胸を撫でおろした。
銀座のビルヂング建設予定地についても、その地を離れた綺羅が悪さをすることはもうない。父の除霊が効いたのだと、現場では感謝されているらしい。
綺羅の存在について、そして彼が感じた怒りについても、晶子や彼女の父が知ることはないだろう。知ってほしいという気持ちはあるものの、馨子もどう話せば良いかわからないし、話したところで信じてはもらえない。
(近頃は、人とあやかしの関係がより複雑になってきたわね)
あやかしが見えない人にもその存在が信じられ、恐れられていた時代はもう終わった。祟りを恐れなくなった人々は、知らないうちに禁忌を犯す。
今の帝都はあやかしが住みにくい。そんな窮屈な思いをしているのは、綺羅だけではないのだろう。
「私の体調不良があまりにも突然で様子がおかしかったせいか、私の父がおかしなことを言い出したのよ。もしかすると、これは神様の祟りかもしれないって」
晶子が唐突にそんな話を始め、馨子は驚いた。
「神様の祟り?」
「実は、父が新しくビルヂングを建てる予定の土地でも、事故が続いていたらしいのよ。そこには以前、稲荷の祠があったんですって。工事を始めるにあたって撤去したのだけれど、それから事故が起きたり関係者が病気になったりして、信心深い作業員の方たちが神様の祟りだと騒ぎ始めたの」
綺羅の祠の話は、晶子の耳にも入っていたようだ。
馨子は何も言わずに彼女の話に耳を傾けた。
「それで、現場のほうでお祓いを頼んだら、事故はぴたりと起きなくなって、病気も治ったそうよ。父は普段そういうことを信じる人ではないけれど、あまりにも不思議な話だから、世の中にはそういうこともあるのかもしれないと思い始めたそうなの。馨子さんは、陰陽師の娘としてどう思う? やっぱり、神様もあやかしもいるのかしら」
「ええ、いると思うわ。姿が見えなくても、きっと。それにそのお祓い、依頼されたのはたぶん私の父よ」
「まあ、そうだったの? 凄い偶然だわ。私の体調が戻ったのも、きっと馨子さんのお父様のおかげなのね。だって、本当に嘘のように体調が回復したんだもの」
流行かぶれなところはあるが、晶子は素直な性格である。説明がつかない体験をそのまま受け入れることにしたようだ。
彼女の話を聞いて、馨子は少し嬉しくなった。
慌ただしい日々に忙殺されそうになりながらも、あやかしも神様も、人々の心から消えてはいない。そう信じられたからだ。
あやかし――とりわけ緋月は馨子にとって、ただ契約によって結ばれた従者ではなく、言葉にはできない大切な存在である。時代がどれだけ変わっても、これからも、ずっとともにありたいと願う。
(緋月は私の傍にいてくれる。どんな関係でも、それだけは変わらない。きっと、いつか私の命が尽きるまで……)
揺るぎなくて、少しだけ切ない絆。
それでも、緋月がいない人生など考えられない。それを想像するだけで、馨子は大きな喪失感と絶望に襲われる。
彼を心から愛している。
それはたぶん、家族に対する愛ではなく、緋月だから抱く思い。
この思いがこれからどうなるのか、想像することは怖かった。
だから、今はまだ知らなくていい。
緋月が傍にいてくれるだけで、幸せなのだから。
今日も帝都の空は晴れ渡り、穏やかな光と風が街に満ちている。
この平和がいつまでも続くのだと、馨子は信じていた。
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