第15話
妖狐の憑依が解けて、馨子は緋月の腕の中で覚醒した。
目の前には、鬼の姿をした緋月の美貌がある。
「馨子様、お目覚めですか?」
「あ、緋月……」
馨子の頭の中で、妖狐に憑依されていた間の記憶がぐるぐると駆け巡った。体は自由が利かなかったが、妖狐が見るもの聞くものはすべて馨子も感じていた。
緋月に今にも口づけされそうだったことも、しっかり覚えている。
馨子は顔から火が出そうになって、緋月を思い切り突き飛ばした。
「いやあぁぁぁっっっ……!」
「馨子様、落ち着いてください。いきなり動くと危険です。ここは屋根の上ですから」
「ひ……っ」
緋月に冷静に諭されて、馨子はふたたび彼にしがみつく。
憑依されているあいだ、妖狐は軽業師のように屋根から屋根へと飛んでいた。おまけに、あの凌雲閣のてっぺんにも上ったのだ。高い所が苦手な馨子は、思い出してぞっとする。
緋月は片腕で馨子を抱え、もう片方の手に妖狐の尻尾を掴んだまま、軽やかに屋根から飛び降りた。人通りが少ない道路に、音もさせずに着地する。足の下に地面があることを確認して、馨子はようやくほっとして緋月から離れた。
「緋月、あなた……妖狐を捕まえるにしても、やり方が乱暴すぎるわ! 妖狐を、す、吸い出すなんて……」
馨子は赤面したまま緋月に背を向ける。
そのせいで、緋月に口づけされるところだった。
生まれて初めての口づけなのだ。相手が緋月であることはまあ、心の準備ができていないがそれは良いとして、こんなムードも色気もない形でするのは許せない。
(つまり、緋月にとっては私との口づけなんてその程度ということ? なんなのよ!)
「申し訳ありません、馨子様。一刻も早くあなたを助けたかったのです」
「それにしたって……私に対してあまりに失礼じゃない?」
――この唇が愛しい主のものであることには変わりはないからな
愛しいとは、どういう意味なのだろうか。
きっと緋月のことだから、敬愛とか親愛とか、そういう意味に違いない。わずかに期待めいた気持ちが湧いたが、馨子はそれを打ち消した。
「こちらを向いてください、馨子様。どうすれば機嫌が直りますか?」
「知らないわよ」
「お好きなお菓子をご用意しましょう」
「また甘い物でごまかそうとする。でも、こんな夜中に開いているお店なんてないわ」
「店主を叩き起こして脅して作らせます」
「やめて、そんなこと絶対にしないで! もう機嫌は治ったから!」
「私を許してくれますか?」
「……仕方ないから許すわ」
「ありがとうございます」
妖しく美しく、緋月が微笑んだ。
鬼の姿は久しぶりに見る。
夜風になびく緋色の髪と暗闇でも輝く緋色の瞳。頭部に生えた鋭い角でさえ、胸が痛くなるほど美しいと思ってしまう。
緋月は馨子に従っている鬼だけれど、本当は、魅入られて囚われているのは馨子のほうではないか。そんな気がする。
「どうでもいいけど、僕の存在を無視してじゃれ合わないでくれ」
白けた声がして、馨子は妖狐の存在を思い出した。あんなに厄介なあやかしだったのに、うっかり忘れていたなんてどうかしている。
バツが悪くなったのを隠すように、馨子は妖狐を睨んだ。
それでも、逆さまにぶら下がったままなのはかわいそうなので、地面に座らせてやった。もし妖狐が逃げようとしても、緋月が本気を出せば捕まえることは難しくないだろう。
座ったとたん、妖狐は学ラン少年の姿に変化して胡坐をかいた。
「はぁ……死ぬかと思った」
「あなた、自分の立場がわかっているの? 建設予定地で事故を起こしたり、晶子さんを取り殺そうとしたり、その罪はちゃんと自覚してもらわないといけないわ」
「ゴメンネ」
妖狐は両手を合わせると、馨子に向かってウインクする。馨子はイラッとした。
「まったく心がこもってないんだけど。この狐、どうしようかしら」
「野放しにすればまた何をしでかすかわかりません。この狐はやはり私が食らいましょう」
「それはあまり賛成できないわ。あなたが消化不良を起こしそうだもの」
「そうだ、消化不良を起こすから食わないでくれ! 馨子、助けてよ! もう二度と人に危害は加えないと誓うから!」
「本当?」
「神かけて誓う!」
元神が、いったいどこの神に誓うというのか。
今ひとつ信用できないが、緋月のおかげでかなり懲りたことは確かだろう。
それに、妖狐の気持ちもわかるのだ。
妖狐に憑依されているあいだ、馨子は彼の記憶や感情を共有していた。
ずっと昔、妖狐はこの地に祀られるために、人間によって西国にある社からはるばる連れて来られた。人々は妖狐のために綺麗な祠を作り、様々なお供え物をして、日々祈りを捧て感謝した。
そうやって、しばらくは幸福な時代が続いた。
けれど、時が江戸から明治、大正へと移るにつれて、帝都の形も、それ以外のあらゆるものも急速に変化していった。
古いものは壊され、目に見えないものは存在しないものとされて、神もあやかしも居場所と存在意義を失っていったのだ。
陰陽師だって、数も仕事も減っている。
これからも、いろいろなものが変わっていくだろう。それは仕方がないことではあるけれど、寂しいことにも思える。
「緋月、妖狐を放してあげて」
「馨子様、見逃すのですか?」
「この妖狐、いろいろやったけれど人は殺していないのよ。晶子さんも無事だったわ」
そのことは、妖狐が闇落ちせずにギリギリ踏みとどまった証といえる。口では恐ろしいことを言いながらも、心の底では人間を憎みきれなかったのではないだろうか。
馨子はそう思いたかった。
「もうこの地にあなたの祠はないけれど、あなたほどのあやかしならどこへ行ってもやっていけるでしょう? もう人に危害を加えちゃダメよ。元気でね」
無条件で解放されるとは思っていなかったのだろう。妖狐はしばらく気が抜けたような顔をしていた。
それから、すっくと立ち上がり、馨子の前に進み出る。
「馨子、僕を君の従者にしてくれ」
「え?」
「貴様……いきなり何を」
思ってもみなかった申し出に、馨子は唖然とし、緋月は眉間に皺を寄せる。
妖狐はなおも馨子に近づき、胸に手を当てて力説した。
「君と契約すれば、僕は君が禁じたことはできなくなる。それなら安心だろう? 僕は役に立つよ。なんたって元神だからね。僕を従えれば、君もきっと鼻が高いはずだよ」
「う~ん……だけど、あやかしを誰かに自慢することはないし」
「人に変化した僕と歩けば、みんなに羨ましがられること間違いなしさ。こんな美少年とデートできるなんて、そうそうないことだからね」
「……美少年て、自分で言うのね」
緋月にも自分の容姿が整っているという自負があるように、あやかしはみんな自信家なのかもしれない。実際に二人とも美形なので反論はできないのだ。
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