第14話
馨子だと思うと本気で攻撃できず、緋月は振り払うだけで精一杯だ。
妖狐は鋭い爪で緋月の腕を引っかくと、そのまま十二階の建物の外側へと飛び降りた。かすり傷から滲む血を舐めて、緋月もすぐにそれを追いかける。
二つの人影が、浅草の夜空に舞う。
屋根から屋根へと飛び移り、時折交差して攻撃を繰り出した。その光景は誰の目にも映らないサーカスのようだ。
「あはは……久しぶりに楽しいなぁ。こんなに遊んだのはいつぶりだろう」
忌々しいことに、妖狐は遊んでいるつもりのようだ。
いいかげん相手をすることにうんざりしたが、馨子の体を取り戻すまでは耐えなければならない。
(さて、どうしてものか)
緋月は、ひとつ賭けに出ることにした。
「馨子様、起きてください。私の声が聞こえるでしょう?」
妖狐の中で眠っているだろう馨子の意識に向かって、呼びかける。
「友人思いは結構ですが、従者の苦労も考えてください。自分から憑依を許すとはあまりに軽率です。降霊術で妖狐に遭遇して黙っていたことも、帰ったらじっくりお説教させていただきますから、そのおつもりで」
馨子に声が届くかはわからなかった。しかし、日頃からあやかしと接している馨子には、普通の人間よりも妖力に対する免疫がある。たとえ体を乗っ取られていても、完全に意識を失っているわけではないかもしれない。
「無駄だよ。馨子の意識は僕が封じている、から……」
緋月の行動を鼻で笑った妖狐は、ふとその表情を強張らせる。
急に気分が悪くなったように、胸を押さえて体を二つに折った。
「え、まさか……オイ……いっ……」
苦し気に両手で胸元を掴んだ妖狐が、勢いよく顔を上げた。
「お説教は嫌っ! 緋月、あなたの話は長すぎるの! 見た目はいいのに、中身はまるで口うるさいお年寄りみたいなんだから!」
そう叫んだのは妖狐ではなく、間違いなく馨子である。その証拠に、金色だった瞳が黒に変わっている。
意識が戻った理由が説教に対する拒否反応だとしても、とりあえず緋月の賭けは成功したらしい。
「お年寄りみたいで悪かったですね。まあ実際、私は長く生きてはいますが」
「え、ちょっと……私、こんな高いところにいたの? 緋月、助けて!」
屋根の上にいることに気づいた馨子が、下を見て震えている。そしてすぐに、苦し気に身をよじり始めた。
「緋月……妖狐が、また……っ」
「馨子様、もう少しだけ頑張ってください」
呻き出した馨子の傍に飛ぶと、緋月は素早くその腕を掴んだ。それを振り払おうとするように、馨子が暴れる。
馨子の中で、馨子と妖狐の意識がせめぎ合っているのだ。
「……なんて娘だ……一瞬でも僕の支配から逃れるなんて」
やがて、金色の瞳が、腕を掴んでいる緋月を睨み上げた。
もう馨子から妖狐に戻ってしまったらしい。やはり、元神の力に対抗するのは簡単ではない。
妖狐は勝ち誇ったように笑った。
「今度こそ、完全に馨子を抑えたぞ。もう彼女が出てくることはない。僕を捕まえたところで、おまえにはどうしようもないだろう? この体に傷をつけるわけにはいかないからな」
「ああ、だが他にも手はある」
緋月は妖狐の腕を放さず、そのままぐいっと引き寄せた。まるでダンスを踊るように背中に腕を回す。
「おまえ、なにをする気だ?」
「居場所がないことが不服なら、私がおまえを食らってやろう。妖狐を食ったことはないが、零落しても神は神。妖力の足しにはなるだろう」
「おまえの腹の中が住み心地がいいとは思わないけどな。それにどうやって食らう気だ? 僕は馨子から出る気はない。それとも、この体ごと食うか?」
「馨子様の体から、おまえを吸い出す」
「吸い出す……?」
理解できないというように、妖狐がぱちぱちと瞬きする。
緋月は不敵に笑うと、妖狐の体を抱き寄せた。その唇に自分の唇を近づける。
「神は口吸いも知らんのか? 中身が貴様だと思うと白けるが、この唇が愛しい主のものであることに変わりはないからな」
「まっ、待てっ! 待て待て待てっ!」
ようやく緋月の意図が理解できたのか、妖狐は慌てふためいた。
口づけによって馨子から妖狐の魂を吸い出す。緋月ならばそんな強引なまねも出来るかもしれないと察したのだろう。
そして吸い出されたら最後、妖狐は緋月の腹の中に納まってしまう。
「ぎゃあぁぁっ、やめろ! わかった! わかったから!」
緋月を押しやって体をねじると、馨子の背中からはがれるように金色の狐が飛び出した。
緋月は馨子を片手で支えたまま、もう片方の手で素早く妖狐を捕まえる。尻尾をつかまれた妖狐は、逆さまになってだらんとぶら下がった。
「食われるのは嫌だ! 放してくれ!」
「散々こちらを振り回しておいて、今更命乞いとは無様だな。貴様、曲がりなりにも神を名乗っていたのではないのか?」
「神が命乞いして何が悪い! 誰だって命は惜しいだろ!」
「勝手な言い分だな」
「振り回すな!」
妖狐をぶらぶらさせていると、片腕で抱いていた馨子が小さく呻いた。今度こそ本当に意識が戻ったようだ。
薄目を開けた馨子に、緋月が尋ねる。
「馨子様、お目覚めですか?」
「あ、緋月……」
顔を覗き込むと、馨子は急に大きく目を見開いた。その顔がみるみる赤く染まっていく。
「い、いやあぁぁぁぁっっっ……!」
耳をつんざくような悲鳴とともに、緋月は馨子の両手で思い切り突き飛ばされた。
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