第13話
人目につかない緋月は、誰にも見とがめられることなく東川邸に入った。邸内には異常はなく、晶子は穏やかな表情で眠っている。
けれど、邸内のどこにも、馨子の姿も、妖狐の気配もない。
おそらく、妖狐が馨子を連れ出したのだ。
妖狐の当初の目的は東川家だったはず。それが、何らかの理由で馨子へと興味が移ったとしたら。
(彼女の特殊な霊力に、妖狐も気づいているのだろう)
馨子が妖狐と会ったのは、今日が初めてではないのかもしれない。昨日の狐狗狸さんの時点で、既に妖狐と接触していた可能性はある。
だとすれば、馨子は昨夜の会話で緋月に嘘をついたことになる。
友人との付き合いにうるさく言われたくない気持ちもわかるが、隠し事をされるのはいただけない。
「そこはやはり、後で一言言わせていただきますよ、馨子様」
一言で終わる自信はないが。
そのためにも、一刻も早く馨子を救出しなければならない。
世間知らずのお嬢様だが、馨子は聡明で意志が強い。いざとなれば、自分ではなく誰かを守るために危険を顧みない人だ。そのやさしさが、緋月には歯がゆくもある。
そういうところは昔から少しも変わっていない。
幼い頃から。
そして、彼女が生まれる前からも――
東川邸から、今度は銀座の建設現場へ足を向けたが、そこにも馨子と妖狐はいなかった。
その頃になると、あたりはすっかり暗くなってきた。銀座通りに並ぶガス灯が煉瓦街を照らし、中心部はまだ人で賑わっている。
ビルヂング建設予定の空き地に立つと、いつの間にか懐に潜り込んでいた小鬼がもぞもぞと這い出て来た。
「おまえたち、仕事だ」
緋月の命令に応えるように小鬼が地面に飛び降りた瞬間、その姿が弾けて、赤、青、白、黒、緑色の五匹の小鬼へと分身する。
「馨子様を探せ。たとえ帝都の外にいようと、海の向こうにいようとも、必ず見つけ出せ」
「合点です!」
五匹の小鬼は声を揃えて返事をすると、帝都中へと散っていった。
その中の白鬼が馨子の居場所を知らせて来たのは、それから半刻ほど経った頃だ。
場所は浅草。
十二階と呼ばれる煉瓦作りの高層建築、『
建設当初は大きな話題になった建物も今や老朽化が進み、昼間でも訪れる客は少ない。夜になれば、周辺にいくつも立ち並ぶ私娼窟が活気づき、淫靡な空気が漂う。とてもではないが、馨子を連れて来られる場所ではない。
それだというのに、その馨子の気配を凌雲閣のてっぺんから感じるのだ。
「狐め……許すまじ」
さらなる怒りが湧いた勢いで、緋月は近くの電柱へと飛び上がった。それから、凌雲閣の十二階まで一気に飛び移る。
展望台の縁に立つと、そのさらに上の屋根から声が掛かった。
「忠実な下僕が、ご主人様を探しに来たのか?」
急勾配の屋根に器用に立って、袴姿の馨子がこちらを見下ろしている。
声も姿も他ならぬ馨子のものだが、彼女の体の中から別の気配が感じられた。例の妖狐が憑依しているのだ。
「馨子様の声で不愉快な言葉を口にするな。今すぐにその体から出ろ、狐」
「憑依しろと言ったのは彼女だよ。友人を助けるために、自分の体を差し出したんだ。美しい友情じゃないか」
思った通り、馨子は進んで晶子の身代わりとなったらしい。
友情なのか、陰陽師の血を引く者としての使命感なのかはわからない。
馨子のやさしさが愛しい。彼女の信念を尊重する。けれど、緋月は遣る瀬無い気持ちにさせられた。
緋月がどれほど馨子を大切に思っているか、彼女は理解していないのだから。
「憑依してみてわかったけど、この娘には
玉依とは、神降ろしの儀式で器となる巫女のことだ。陰陽師の家系に生まれたせいか、馨子はその能力が高い。
あるいは、その素質があるからこそ、陰陽師の家系に生まれたのかもしれない。
彼女自身の魂が巫女としての高い力を秘めていることを、緋月だけは知っていた。
「ただの怨霊となり果てた化け物が調子に乗るな。馨子様を汚すことは私が許さない」
緋月は妖狐に向かって飛び掛かった。
馨子の体には傷一つつけるわけにはいかない。力を加減して捕獲しようと手を伸ばすが、相手もそう簡単に捕まるはずもなかった。
妖狐は緋月の弱点が馨子だと理解しているから、その体を人質にしている。
「おまえ、結構強いね。そのへんの雑魚とは違うな。この体がおまえの大切なご主人様でなかったら、僕も危なかったかもしれない」
「神を名乗るくせに卑怯な手を使う」
「どこの世界に品行方正な神がいる?」
地上をはるか下に見下ろす高層建築の屋根で、二人のあやかしが睨み合う。
頭上でこんな対決が繰り広げられているとは、誰も夢にも思わないだろう。呑気な人々の賑やかな声が、夜風にのって上まで届く。
夜でも明るい下界を、妖狐は冷めた目で見下ろした。
「人間とは愚かな生き物だ。闇を照らし、天を目指し、現世のすべてを手に入れようとしている。短命でか弱いくせに、神にでもなった気でいるのさ。彼らは脆くて、愚かで、とても哀れだ。そうは思わないか、鬼」
人を罵りながらも、その声にはどこか悲哀も感じられる。
緋月には、神だった者の気持ちなどわからない。どうでも良かった。
だが、希望を打ち砕かれ、己の宿命を呪いたくなる気持ちは知っている。
「哀れなのは貴様だろう。脆くて愚かな人間に期待して裏切られ、拗ねているだけではないのか? 恨むなら勝手に恨め。東川の人間を末代まで祟るのならそうしろ。私は止めない。だが、馨子様はすぐに開放しろ」
「馨子様馨子様って、おまえはそればっかりだな。人間に隷属するあやかしが偉そうに説教するなよ」
「馨子様に仕えるのは私の意志だ」
「意志? わからないな。この娘はおまえのなんなんだ?」
「貴様に話すつもりはない」
「おまえほどの鬼が人間に、それもこんな小娘に進んで使役されるとは。さぞかし大した理由があるんだろうな。実に興味深いよ」
妖狐は笑いながら、緋月に向かって跳躍した。
ほとんど足場のない尖った屋根の上である。肉体は馨子でも、中身はやはりあやかしだ。曲芸じみた動きで、ひらりと宙返りする。
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