第10話
途中でお見舞いの果物を買い、馨子は晶子の家を訪ねた。
出迎えてくれたのは晶子の母親だ。あまり具合が良くないようならお見舞いを渡して帰るつもりだったが、母親は馨子の訪問を喜んで、すぐに晶子の部屋へと通してくれた。
昨日も訪れた明るく華やかな洋室で、晶子はベッドに横になっていた。
洋風の寝巻を着た晶子はいつもより顔色が悪く見えたが、それでも馨子を見て嬉しそうに体を起こす。
「馨子さん、わざわざ来てくれたの?」
「晶子さん、起きなくていいわ。私はすぐに帰るから。心配で少し顔が見たかっただけなの」
「ありがとう、馨子さん」
熱のせいなのか潤んだ瞳で、晶子はベッド横に立つ馨子の手を握った。
「私はもうダメかもしれないわ。だから、最後に馨子さんに会いたかったの」
「そんな……弱気になるのは晶子さんらしくないわ。元気を出して」
晶子がいつになくしおらしい。けれど、昨日にくらべてかなり顔色が悪いのは確かだった。死相が出ているとまでは思わないが、たった一日寝込んだだけでずいぶんやつれて見える。
「熱を出したなんて、物心ついてから初めてよ。きっと私、このまま死ぬんだわ」
「そんなこと言わないで。すぐに治るわよ」
「だって、美人薄命というじゃない」
「…………」
なんと返していいかわからず、馨子はぎこちなく微笑む。こんなセリフが出るくらいなので、今のところは大丈夫そうである。
(あの妖狐の妖気は感じないけれど……)
晶子の部屋を見回したが、特に変わったことはない。昨日の妖狐の姿も、気配もまったくなかった。
やはりただの杞憂なのだろう。きっと、晶子は悪い風邪でもひいたに違いない。
「晶子さん、私はもう帰るわ。どうそお大事に。お見舞いの果物をお母様に渡したから、後で食べてね」
「それは嬉しいな。僕は果物が大好物なんだ」
突然、晶子の口調が変わり、馨子はぎょっとして彼女の手を離す。
俯き加減だった晶子の肩が揺れて、くすくすと笑っているのがわかった。晶子が顔を上げると、黒かった彼女の瞳は金色に変わっている。
縦になった瞳孔が、馨子を見つめた。
「晶子さん? ……いえ、あなたはもしかして、昨日の妖狐?」
「そうだよ。やっぱりまた会えたね、馨子」
晶子の姿をした妖狐は、ベッドから足を下ろすと床の上に立った。白い寝巻の裾をつまむと、「なんか、スースーするよ」とおどけてみせる。
(妖狐が晶子さんに変化しているの? いえ、おそらくこれは憑依だわ)
つまり、晶子の体に妖狐が取り憑いているのだ。
昨日もそうだったが、妖狐が自分から存在を現わすまでまったく気配を感じなかった。けれど、今はただならぬ妖気が晶子の体から立ち上っている。
この妖狐は、妖力が弱いから存在がわかりにくいのではない。
これだけの強い妖力を隠す術を知っている、高位のあやかしなのだ。
「晶子さんの具合が悪くなったのは、あなたのせいだったのね。普通の人にとって、あやかしの憑依は酷く体力を削られることだもの。早く晶子さんの体から出て行って」
「人間の体はとても非力だからね。このままだとこの娘、一週間くらいで死んじゃうかもしれないな」
妖狐は笑いながら言い、馨子はぞっとした。
これは人に害を成す部類のあやかしだ。自分の悪戯で人が死ぬかもしれないのに、それをなんとも思っていない。
「悪戯にしては悪質すぎるわよ。米櫃の蓋を動かすのとはわけが違うでしょう」
「これは悪戯じゃないよ。僕は最初からこの娘を取り殺すつもりだったんだから」
「取り殺す、ですって?」
まさか妖狐にそこまでの悪意があるとは想像もしなかった。それも、晶子を狙っていたかのような口ぶりだ。
「どうして? 晶子さんに何か恨みでもあるの? 降霊術が不謹慎だったことは謝るわ。だから、どうか許して……お願い!」
「降霊術はどうでもいい。あれはむしろ、僕には都合が良かったんだ。君たちに呼ばれなければ、土地に縛られていた僕は、たぶんここまで来られなかっただろうからね」
「あなた、もしかして……」
馨子の中で何かが繋がりかけた。
それについて問いかけようとした時、抱えていた風呂敷包みの中から何かがびゅんと飛び出した。真っ赤な手毬のように見えたそれは、全速力で妖狐に向かって走って行く小鬼である。
「▼!*%……!!」
小鬼は甲高い声で何か叫びながら、勇ましく妖狐に向かって行った。
もしかすると、馨子を守るために妖狐と戦うつもりなのだろうか。とてもではないが、小鬼が敵う相手ではない。
「待って……っ」
馨子が止めようと手を伸ばす。
すると、小鬼はなぜか急激に方向を変えた。妖狐の手前でほぼ直角に曲がったかと思うと、薄く開いていた窓めがけて飛び上がる。
そしてそのまま、窓の外へと消えてしまった。
(え……もしかして、逃げたの? 私を置いて?)
馨子は呆然と、小鬼が出て行った窓を見つめる。
緋月から馨子の護衛を任されたのではなかったのか? いてもたぶん役には立たないので、逃げてくれても構わないのだが。
なんだか釈然としない気分ではある。
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