第8話
「馨子様、明日はお一人で本当に大丈夫ですか?」
父が部屋を出て行くと、緋月はふたたび心配そうに尋ねた。
どれだけ過保護なのかと馨子は呆れる。父が言うように、緋月は世話を焼きすぎだ。馨子が世間知らずだとしたら、半分以上は彼のせいだろう。
「しつこいわよ。なにも問題ないわ」
「電車の乗り方はわかりますか? お金を払うんですよ?」
「緋月……あなた、私をいくつだと思っているの?」
「十六ですね」
「世間ではもう結婚している人もいるのよ」
「ですが、馨子様には早すぎます。あなたがちゃんと大人になるまで、私が傍でお守りしなくては」
「そうやって子供扱いして……過保護すぎるとお父様も言っていたじゃない」
ここまで子供扱いされると、馨子も反抗したくなる。それこそが子供の証拠ではあるが、馨子は意地になっていた。
「十六といえば、もう恋愛や結婚について考える年齢なのよ。これでも子爵令嬢なんだから縁談だって来るでしょう。いいかげんな占いに婚期を尋ねるつもりはないけれど、私だっていずれは……」
「占い?」
勘のいい緋月は、ぴくりとその言葉に反応する。
(しまった……)
狐狗狸さんのことは黙っておくつもりだったのに、うっかり口をすべらせてしまった。緋月に知られれば、たぶん良い顔はしないだろう。
ここは何としてでも隠し通さなければならない。
「占いとは、なんのことです?」
「え……私、そんなこと言ったかしら?」
「はっきりと『占いに婚期を尋ねるつもりはない』と聞こえましたが。どういう意味でしょうね。馨子様、どうして目が泳いでいるんですか?」
「べ、べつに泳いでませんけど?」
「私の目を見てください、馨子様」
馨子の頬を両手で挟み、緋月が間近で顔を覗き込んでくる。
人を魅了するあやかしの性なのか、相手を追い詰める時の緋月の笑顔はいつにも増して美しい。馨子は魅入られたように動けなくなる。
「私になにか隠していませんか?」
「緋月……っ」
(美貌を武器にするなんて狡いわ! それとも私がお手軽すぎるの?)
緋月の顔がさらに近づいてくる。心臓が大きく脈打ち、呼吸もままならなくなった馨子は、耐えきれずに叫んだ。
「晶子さんたちと狐狗狸さんをやったの、ごめんなさい!」
「狐狗狸さん……?」
「晶子さんに誘われて、断り切れずに……」
白状してしまった。自分の意志の弱さが情けない。
緋月は呆れたように溜め息をつくと、冷笑を浮かべた。
「女学生はバカなんですか? 狐狗狸さんで神霊を呼び出して、本当に占いができると思ったんですか?」
「そこまで言わなくてもいいじゃない! 確かに軽率だったけれど……」
「仮にも陰陽師の娘が何をやっているんです。たとえ遊びでも、あやかしを刺激することが危険なことくらいわかるでしょう」
「……反省しているわ」
いつにもまして緋月が怖い。わかっていたことなので、馨子は言い返せずに項垂れた。
「他には? もう私に隠し事はありませんか?」
「……ないわ」
緋月はまだ疑り深い目をしていたが、こちらのいじけた様子を見かねたのか、馨子を胸に引き寄せて軽く抱きしめた。
「子供の遊びで神霊が降りるとは思えませんが、あなたはあやかしに好かれやすい体質ですから。くれぐれも気を付けてください。ですが、馨子様がご無事で何よりでした」
馨子にはあやかしが見えるが、陰陽術が使えるわけではない。つまり自分で自分の身を守る術がなく、悪戯好きなあやかしの標的になりやすいということらしい。他にも何かありそうだが、緋月は詳しく語らない。
馨子が思っている以上に、緋月は馨子の身を案じてくれている。
それを思うと気が咎めたが、妖狐と遭遇したことはやはり言えない。これ以上、緋月を心配させたくなかった。
「ごめんなさい、緋月」
謝ると、緋月の手が馨子の髪をやさしく撫でた。
妖狐に何かされたわけではないし、万が一あの妖狐が馨子の後をくっついて来ても、結界が張られた鬼堂院の屋敷には簡単には入れない。もしもまた外で会うことがあっても、自分から声を掛けることはしないつもりだ。
人間がそうであるように、あやかしも心の中で何を考えているかはわからない。
父が除霊を請け負った土地神のように、人に害を成すあやかしもいる。そういったあやかしが自分の手には負えないことは、馨子にもわかっていた。
――またね、馨子
また会えると確信しているかのようなあの声には、ほんの少しだけ背筋がひやりとする響きがあった。
銀座の稲荷神とは何も繋がりはないのだろうか。
「明日は一日お供できませんが、くれぐれも気を付けてください」
「大丈夫だから、あなたはお父様の仕事に専念してちょうだい」
心配症の従者の手に自分の手を重ねて、馨子は微笑む。
緋月はその手を強く握り返した。狂おしい瞳に、本来の緋色の光がかすかに滲んで見えた。
「馨子様、もしもあなたに何かあれば、私はこの世のすべてを呪います」
「怖いことを言わないで、緋月。私には何も起こらないわ。だって、あなたが守ってくれるのでしょう?」
「ええ、あなたのことは必ず私がお守りしますとも」
その声は馨子への誓いのようでもあり、彼自身への戒めのようにも聞こえる。
どんな思いが緋月にそう言わせるのか、馨子は知らない。
人はか弱くて、あやかしにくらべると人生はあまりにも短い。
緋月は何を求めて、馨子の傍にいるのだろう。
(私はいつまで緋月と一緒にいられるのかしら……)
今、こうしている時がとても幸せだ。
だから、いつか必ず来る別れを思うと、馨子は切なくてたまらなくなるのだった。
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