第2話

 晶子と別れた馨子は、校門の外に停まっている自動車へと急いだ。

 女学校へは緋月が運転する自動車で通っている。帝都でもまだ馬車が主流だが、鬼堂院家には自動車があり、しかもあやかしが運転しているのである。


 黒の上下に身を包んだ緋月が、自動車に寄りかかるようにして立っていた。一枚のポートレイトのようなその姿を、いつものように、女学生の集団が遠巻きに眺めている。


「お疲れ様です、馨子様」


 人の視線などまったく気にしていない涼しい顔で、緋月は微笑んだ。その笑顔で、女学生のあいだから黄色い悲鳴が上がる。

 日頃から見慣れている馨子でもドキリとするのだから、この美貌に慣れていない者にとっては目の毒だろう。


「遅くなってごめんさい、緋月。晶子さんと少し話し込んでしまって」

「それは構いませんが、どうかされましたか? 若干お顔が赤いですよ」


 緋月は馨子の額に手を当てると、「熱はありませんね」と呟いた。

 あやかしだからなのか、それとも馨子を幼い頃から知っているからなのか、緋月はこういった行為に躊躇がない。家族でもない男性は、年頃の女子に気軽に触れたりはしないものなのだが。


 女学生たちがまた悲鳴を上げたので、馨子は恥ずかしくなって緋月の手を払う。


「何ともないわ。ちょっと疲れているだけよ」

「それならば良いのですが。近頃は夜更かしされることが多いので、心配していたところです。読書もほどほどになさってください。大方、ご友人からまた少女雑誌を借りたのでしょう?」

「どうして知っているのよ。あなた、妖術を使って私のことを見張っているの?」

「そんなことをしなくても、馨子様のことなら何でもお見通しです」


 自動車のドアを開けて、緋月が意味深に微笑む。馨子は雑誌の入った風呂敷包みを両手で抱いて、後ろの座席に乗り込んだ。


 もう十年も一緒にいるせいか、緋月はすっかり馨子のお目付け役になっていた。

 何でもお見通しというのも決して大袈裟ではないかもしれない。馨子の体調には良く気が付くし、不摂生をしたりすると注意される。鬼の説教は普通の人よりも威圧感があって怖いのだ。


(緋月は、私を子供扱いしてばかり……)


 緋月にとって馨子は、主人であり、妹であり娘のようなものなのだ。それは仕方がないとわかってはいるけれど、最近、馨子には不満だった。


(駆け落ちだなんて、晶子さんがおかしなことを言うから意識してしまうじゃない)


 身分違いどころか、馨子と緋月は人と鬼であり種族まで違う。彼の年齢は知らないけれど、年の差だってきっと人の一生分以上あるのだろう。


 鬼や、その他のあやかし――妖怪とか魔物とか呼ばれることもある――たちは、本来は人とは違う世界に生きている。

 ほとんどの人の目には、彼らあやかしの姿は見えない。緋月がみんなに認識されているのは人に化けているからで、そんな変化術が使えるのは妖力が強いあやかしだけだ。


 緋月と出会ったのは、馨子が七つの時だった。

 正式な陰陽師ではない馨子に使役鬼がついたことで、父はとても驚いていた。けれど、幼い頃に母親を亡くした馨子が緋月に懐いたことで、子育てに関してずいぶん助かったようだ。


 古くから陰陽道を継承してきた鬼堂院家は、鬼を使役して術を行う。

 陰陽師である父や兄も、それぞれ使役鬼を従えている。鬼たちは皆、人に変化して、人の世に溶け込んで生きていた。生まれた時から彼らを見慣れている馨子にとっては、人もあやかしも大した違いはない。


 それでも、人とあやかしのあいだには、やはり大きな隔たりはあると思う。

 あやかしは人よりも長い時を生きるし、とても丈夫だ。妖力の強さにもよるけれど、少しくらいの怪我なら瞬時に治る。彼らにくらべたら、人はとてもか弱い。


 命が長いということは、自ずと生き方や考え方も変わってくるのではないか。

 人と同じ姿で、人の言葉を話すから、つい同じなのだと思ってしまうけれど、あやかしの心には人とは違う部分もたくさんあるはずだ。


 彼らも、誰かを愛しいと思うことがあるのだろうか?

 恋をしたりするのだろうか?

 緋月は、恋をしたことがあるのだろうか?


 あやかしの出生は様々で、元が動物だったり物だったりすることもあるし、自然現象などから生まれることもあった。

 鬼というのはあやかしの中でも特殊で、元は人だった場合もあるらしい。


 緋月がどうして自分のもとに現れたのか、それまでどのくらいの時間を、どんなふうに生きてきたのか、馨子は知らない。ずっと傍にいるのに、ちゃんと聞いたことがなかった。物心ついてからは、聞くのが怖い気がしたからだ。


 緋月は馨子に仕える鬼だけれど、大切な家族でもある。

 やさしくて、時々口うるさい。父のようで、兄のようで。

 いつも、誰よりも傍にいてくれた。


 緋月が一緒にいることは当たり前で、彼がいない生活は馨子には考えられない。

 離れていると寂しくて、つい緋月のことを考えてしまう――


(いやいや、これって晶子さんが言ってたことと同じじゃない!)


 これが恋だとしたら前途多難だ。

 身分の違い、種族の違い、年齢差……愛があればそんなものは乗り越えられるのだろうか。古今東西、衣類婚姻譚はたくさんあるけれど、だいたいどれも悲恋に終わるのではなかったか。


 問題はそんなことよりも、緋月が馨子をどう思っているかである。


 どう考えても、緋月にとって馨子は手のかかる妹か娘だ。甲斐甲斐しく世話を焼くのも、やたらと距離が近いのも、肉親に対するような愛情に違いない。


 種族の違い以上に不毛である。

 だから、よくわからない感情を、馨子は保留することにした。

 緋月に恋していると認めてしまうと、何かが終わってしまう気がしたからだ。

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