第1話
大正某年、帝都東京。
洋風のモダンな女学校校舎には軽やかな笑い声が溢れ、
ここ桜岡女学校は良家の娘が通う教育機関だ。今年で十六になる馨子も十二の年から通っている。
「馨子さん、待って。今月の『少女の園』を持って来たわ」
途中、友人の晶子に呼び止められ、馨子は足を止めた。
「ありがとう、晶子さん! 楽しみにしていたのよ」
晶子がこっそりと差し出した風呂敷包みを馨子は受け取った。
中身は女学生に人気の少女雑誌である。美しい少女が描かれた表紙で、少女小説や詩、抒情画などが載っている。友人同士でこっそり貸し借りしているが、教師に見つかれば没収されるので気を付けなければならない。
東川晶子は女学校で一番仲が良い友人である。
晶子の祖父は勲功によって男爵位を得た実業家で、東川家は明治の時代から貿易業で財を成したという。
家柄や財産だけでなく、才色兼備の晶子本人も学内で目立つ存在だった。子爵令嬢の馨子のほうが家格が上ではあるものの、こちらは容姿も学業も平均並みという自覚がある。それでも、晶子とは昔からなぜか気が合った。
「今月も吉岡先生の小説は素晴らしかったわ。遠く離れた婚約者を思う主人公の気持ち、思い出すだけで胸が締め付けられそうよ!」
「家でゆっくり読ませてもらうわね。ごめんなさい、迎えが来ている頃だからもう行くわ」
「ああ、あの素敵な運転手さんね。緋月さん、だったかしら」
「……ええ、まあ」
馨子は曖昧な笑顔で応えた。
馨子の送迎をしている緋月は、その美貌と優雅な立ち居振る舞いで学友たちの目を引きまくっている。緋月を見るために、馨子の登下校を見張っている生徒までいるのだ。時には、生徒の中に女性教師が混ざっていることもある。
「緋月さんて、本当に美しいお顔をなさっているわよね。外国の映画スターよりも整ったお顔立ちだわ。まるで物語に出て来る王子様のよう。とても同じ人間とは思えないほど」
「そうかしら? それほどでもないと思うけれど……」
否定しつつ、馨子の笑顔が引きつった。
(晶子さん、鋭いわ! 緋月は人間じゃなくて鬼なのよ!)
普段、緋月は妖術で人に変化している。緋色の髪や瞳の色は黒く変わり、もちろん角はない。上下とも黒い一揃いの洋服を着ていて、外国人にも負けない長身にそれが良く映えるのだ。
けれど、馨子は緋月の本当の姿も嫌いではなかった。
炎の色をした髪と瞳、真珠のように輝く二本の角。獰猛さを秘めた鬼の姿は怖いくらい美しい。
本当の緋月を知っている。そのことに、馨子は密かな優越感を覚えた。
「馨子さんは緋月さんのことが好きなの?」
いきなり何を言い出すかと思えば。
晶子にそう聞かれて、馨子は風呂敷包みを落としそうになる。
「す、好きって、どういう意味かしら?」
「恋しているのかという意味よ。大丈夫、私は誰にも言いふらしたりしないわ。子爵家の令嬢と従者の身分違いの恋だなんて、小説のようで素敵じゃない」
「恋だなんて、そんなことあるわけないわ! 緋月はただの従者で、言ってみれば兄のようなものだから……」
『恋』という言葉に、馨子はなぜか激しく狼狽えた。
平静を取り繕おうとするが、言い訳っぽくなってしまう。
「馨子さん、何も一目惚ればかりが恋愛ではないのよ。親愛の情が恋に変わることもあるわ。当たり前のように近くにいた人が、いつしかとても大切な存在になっていて、離れていると寂しくて、その人のことばかり考えてしまう……そういう恋もあるのよ」
やけに上から目線で恋愛について語っているが、晶子が誰かと付き合ったという話は聞かないので、たぶん少女雑誌の読み過ぎだろう。夢見る乙女の妄想力は凄まじい。
十六ともなれば、周囲では婚約やら結婚といった話題が出る年頃だ。中には卒業を待たずに女学校を辞める生徒もいる。
恋愛に興味があるのは晶子だけではなく、馨子もまた例外ではない。恋愛小説も映画も好きだ。けれど、自分のこととなると話は違う。
本当のところ、恋というのはよくわからない。
けれど、近頃の馨子はもしかするとそれに近い曖昧な感情で悩んでいた。
「馨子さん、駆け落ちする時は教えてね。私が協力するわ!」
「あ、ありがとう晶子さん。急いでいるので、ごきげんよう」
馨子は晶子に背を向けると、足早に玄関へと向かった。
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