帝都アヤカシ浪漫奇譚~陰陽師の娘と鬼の従者~

yamamoto

序章

 馨子かおるこが七つになったばかりの頃だ。

 兄に連れて行ってもらった夏祭りで、迷子になったことがある。


 暗い夜空には祭り囃子が鳴り響き、神社の参道は両脇に並ぶ露店の光で溢れていた。

 夜に外出することなど滅多になかったから、めずらしくて、楽しくて、はしゃいでいるうちに、いつの間にか兄とはぐれてしまった。

 行き交う人々はみんな声を出して笑っていたが、馨子は泣きそうになりながら神社の境内を歩き続ける。怖くて、寂しくて、本当は今すぐ大声で泣きだしたかった。


 周りはみんな知らない人ばかりで、誰も馨子のことなど気にかけてはくれない。

 けれど、人ではないモノたちが、物陰や人々のあいだから、じっと馨子を見ていた。


 夜は魔の時間だ。

 あやかしや霊たちが、昼間よりも活発になる。

 神社の境内は神域だから、それほど悪さはしないだろう。けれど、一歩外へ出れば、もっと恐ろしい魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこしている。


 陰陽師の家系に生まれた馨子は、幼い頃から不思議なものを見聞きしてきた。

 明治が終わり、大正になって、世の中が大きく変わってしまった今でも、あやかしはそこかしこに潜んでいる。ガス灯の明かりが届かない暗闇で、強かに生き抜いているのだ。


 すべてのあやかしが人に悪さをするわけではない。馨子が住む屋敷にもあやかしはいて、彼らは陰陽師である父や兄に従っている。

 馨子には陰陽師の力はなく、ただあやかしが見えるだけだ。

 もしも悪いあやかしに襲われても、抗う術はない。


(怖い……助けて!)


 いつの間にか人込みから離れてしまい、あたりは暗い。

 鬱蒼うっそうとした神社の森の中、馨子は木の根につまずいて転んでしまった。下駄の花緒が切れて、浴衣は土まみれになった。

 もう立ち上がることもできず、馨子は地面に座り込んでべそをかく。


「ようやく見つけた」


 声が聞こえたのは、その時だった。


 初めて聞く男の人の声なのに、なぜか懐かしく感じた。

 顔を上げると、炎のようなあかい長髪と瞳を持つ男が、こちらを見下ろしている。


 背が高く、緋色の着物を身にまとった美しい人だった。

 男性に限らず、こんなに綺麗な人を馨子は見たことがない。父に連れられて、浅草オペラや少女歌劇を見に行ったことがあるけれど、舞台に出ている役者たちですら、彼の足元にも及ばないだろう。


 けれど、彼は人ではない。

 その頭には、二本の鋭い角が生えているのだ。

 あやかし、それもとりわけ妖力が強いと言われる鬼である。


「あなたは鬼ね。……私を食べるの?」


 震える声で馨子は尋ねた。

 鬼は薄く笑い、馨子の前に膝を突く。


「いいえ。食べません」

「本当に?」

「私はあなたを探していたのです」

「私を?」

「気が遠くなるほど長いあいだ、あなたを探していました」


 緋色の瞳が、馨子を慈しむように細められた。

 なんて綺麗なのだろう。

 馨子は戸惑いながらも、鬼の瞳に見惚れてしまう。


「私は、緋月あかつき。昔、ある人がそう名付けてくれました」

「緋月……」


 彼に似合う、とても良い名前だ。

 あやかしにとって名前は特別な意味を持つ。名前自体に、ある種のまじないが込められているからだ。だから、あやかしは名付けた相手に逆らうことはない。

 緋月という名前をくれたその人を、彼はとても大切に思っている。彼の声からそう感じた。


「私は馨子。鬼堂院きどういん馨子というの」

「馨子……良い名だ」


 緋月は馨子を立たせると、涙で濡れた頬をやさしく拭い、浴衣の汚れを払った。


「一人で怖かったのですか?」

「……怖くないわ、ほんの少ししか」

「強がりですね。あなたらしい」


 懐かしむように緋月がそう言った。

 まるで馨子を知っているような口ぶりだけれど、こんなに美しい鬼に覚えはない。

『探していた』という言葉も、どういう意味なのか。

 問いかける前に、緋月が馨子を抱き上げて立ち上がった。


「これからは、私があなたをお守りします。馨子様」


 月明りに照らされた緋色の鬼の姿は、恐ろしくも美しい。

 緋月に魅入られたように、馨子はこくんと頷いていた。


「私が必ず、この命に代えてもあなたをお守りします」


 緋月は重ねてそう言った。

 その声は、まるで彼自身に誓っているように聞こえる。初めて出会ったあやかしなのに、不思議と馨子にはその言葉が信じられた。


 緋月は片手で馨子を抱きながら、もう片方の手の人差し指を立てた。

 すると、その指先にぽっと緋色の火が灯る。鬼の妖力が生み出す鬼火である。

 緋い鬼火はいくつも生まれ、ふわりと虚空を漂う。まるで道標のように、馨子と緋月の行く先を照らしていく。


「こうすれば夜道が明るくなって、もう怖くはないでしょう」


 幻想的な光の中で、馨子はふいにまた泣きたくなった。

 怖かったからではない。


 鬼火がとても綺麗で。

 綺麗すぎて、悲しかったのだ。

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