帝都アヤカシ浪漫奇譚~陰陽師の娘と鬼の従者~
yamamoto
序章
兄に連れて行ってもらった夏祭りで、迷子になったことがある。
暗い夜空には祭り囃子が鳴り響き、神社の参道は両脇に並ぶ露店の光で溢れていた。
夜に外出することなど滅多になかったから、めずらしくて、楽しくて、はしゃいでいるうちに、いつの間にか兄とはぐれてしまった。
行き交う人々はみんな声を出して笑っていたが、馨子は泣きそうになりながら神社の境内を歩き続ける。怖くて、寂しくて、本当は今すぐ大声で泣きだしたかった。
周りはみんな知らない人ばかりで、誰も馨子のことなど気にかけてはくれない。
けれど、人ではないモノたちが、物陰や人々のあいだから、じっと馨子を見ていた。
夜は魔の時間だ。
あやかしや霊たちが、昼間よりも活発になる。
神社の境内は神域だから、それほど悪さはしないだろう。けれど、一歩外へ出れば、もっと恐ろしい
陰陽師の家系に生まれた馨子は、幼い頃から不思議なものを見聞きしてきた。
明治が終わり、大正になって、世の中が大きく変わってしまった今でも、あやかしはそこかしこに潜んでいる。ガス灯の明かりが届かない暗闇で、強かに生き抜いているのだ。
すべてのあやかしが人に悪さをするわけではない。馨子が住む屋敷にもあやかしはいて、彼らは陰陽師である父や兄に従っている。
馨子には陰陽師の力はなく、ただあやかしが見えるだけだ。
もしも悪いあやかしに襲われても、抗う術はない。
(怖い……助けて!)
いつの間にか人込みから離れてしまい、あたりは暗い。
もう立ち上がることもできず、馨子は地面に座り込んでべそをかく。
「ようやく見つけた」
声が聞こえたのは、その時だった。
初めて聞く男の人の声なのに、なぜか懐かしく感じた。
顔を上げると、炎のような
背が高く、緋色の着物を身にまとった美しい人だった。
男性に限らず、こんなに綺麗な人を馨子は見たことがない。父に連れられて、浅草オペラや少女歌劇を見に行ったことがあるけれど、舞台に出ている役者たちですら、彼の足元にも及ばないだろう。
けれど、彼は人ではない。
その頭には、二本の鋭い角が生えているのだ。
あやかし、それもとりわけ妖力が強いと言われる鬼である。
「あなたは鬼ね。……私を食べるの?」
震える声で馨子は尋ねた。
鬼は薄く笑い、馨子の前に膝を突く。
「いいえ。食べません」
「本当に?」
「私はあなたを探していたのです」
「私を?」
「気が遠くなるほど長いあいだ、あなたを探していました」
緋色の瞳が、馨子を慈しむように細められた。
なんて綺麗なのだろう。
馨子は戸惑いながらも、鬼の瞳に見惚れてしまう。
「私は、
「緋月……」
彼に似合う、とても良い名前だ。
あやかしにとって名前は特別な意味を持つ。名前自体に、ある種のまじないが込められているからだ。だから、あやかしは名付けた相手に逆らうことはない。
緋月という名前をくれたその人を、彼はとても大切に思っている。彼の声からそう感じた。
「私は馨子。
「馨子……良い名だ」
緋月は馨子を立たせると、涙で濡れた頬をやさしく拭い、浴衣の汚れを払った。
「一人で怖かったのですか?」
「……怖くないわ、ほんの少ししか」
「強がりですね。あなたらしい」
懐かしむように緋月がそう言った。
まるで馨子を知っているような口ぶりだけれど、こんなに美しい鬼に覚えはない。
『探していた』という言葉も、どういう意味なのか。
問いかける前に、緋月が馨子を抱き上げて立ち上がった。
「これからは、私があなたをお守りします。馨子様」
月明りに照らされた緋色の鬼の姿は、恐ろしくも美しい。
緋月に魅入られたように、馨子はこくんと頷いていた。
「私が必ず、この命に代えてもあなたをお守りします」
緋月は重ねてそう言った。
その声は、まるで彼自身に誓っているように聞こえる。初めて出会ったあやかしなのに、不思議と馨子にはその言葉が信じられた。
緋月は片手で馨子を抱きながら、もう片方の手の人差し指を立てた。
すると、その指先にぽっと緋色の火が灯る。鬼の妖力が生み出す鬼火である。
緋い鬼火はいくつも生まれ、ふわりと虚空を漂う。まるで道標のように、馨子と緋月の行く先を照らしていく。
「こうすれば夜道が明るくなって、もう怖くはないでしょう」
幻想的な光の中で、馨子はふいにまた泣きたくなった。
怖かったからではない。
鬼火がとても綺麗で。
綺麗すぎて、悲しかったのだ。
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