待ち人来たか

犬屋小烏本部

月のない夜に

夜が来る。また、夜がやって来る。

夜が好きだ。

月も星もなくていい。ただ夜というあの時間が途方もなく好きだ。


空が白んで一日が始まるあの瞬間よりも、空を焼きながら日が沈むあの瞬間の方が好きだ。何が楽しいということではない。ただ、生き物が寝静まって自分も同じように眠りへと落ちる瞬間が好きなのだ。


一人きりの夜は複雑な色が混ざりあった黒色をしている。それは理解しきれないものである。

だから人は眠りにつくのだろう。考えることを全て放棄して、別の世界へと旅立とうとする。


ただ、何かを待つように体を横たえる。それは誰かかもしれない。

それがやって来るのを毎夜、待ち続けている。静かに、待ち続けている。




音をたてるな。

笑い声よりも悲鳴の方がその時間には似合うだろう。暗闇には何かが潜んでいる。

足音をたてるな。

自分の居場所を知られてはならない。その時間に外を彷徨く輩にはろくなものがいないだろう。

息は細く、常に聞き耳をそばだてろ。

心臓が叩かれる音が脳まで伝わってくるだろう。体の中で響く音は空気を震わせない。息は細く、細く、冷めた空気に溶けて消えるほどか細く吐き出せ。次を望むのならば深く吸い込め。

目を合わせるな。何者であっても決して目を合わせるな。


安らかに眠りにつきたければいい子で決まり事を守るがいい。



乾いた足音が近づいてくる。扉が叩かれる。ああ、また今夜も呼ばれない来訪者が来てしまったのか。

耳元で囁く声がする。私にも聞こえたように、それはあなたの名前を呼ぶ。

目を閉じたまま開け。それが夢を見る手段だ。

意識を保て。そうすれば夢は手の中で踊り出すだろう。結末を自由に操るには夢と現実の区別が必要だ。

これは現実か。それとも夢か。

叩かれた扉を開き閉じろ。階段が下へ向かって伸びているだろう。

迷わず進め。暗がりに怯えることなく下の階を目指せ。

踊り場には蛍光灯が点滅している。

窓はない。そこが何処かなど無駄な検索をするな。

あなたは黙って下を目指せばいい。




さあ、下りろ、下りろ。深い闇へと落ちてしまえ。底へと着いたなら、二度と戻っては来られぬだろう。

さあ、落ちてしまえ。深い夜の闇へと落ちてしまえ。

ほら。ほら! ほら!!


水が滴る音がやけに響くだろう。

赤子と爺婆の哭き声が煩いだろう。親の小言が癪に障る。隣の男女が雌雄となって啼いている。酔った不法者が吠えている。

夜泣き人には輝かしい朝は用意されていない。

灯籠を持たずに百鬼夜行の列へ加わろう。どうせいく先は見えないのだから。

狼の狩人は竜の吐息に焼かれる。そんな御伽話を硝子越しで観覧することは許されない。血の滴る牙はあなたに向いている。


逃げよ。逃げろ。惨めに命乞いをしながらそこから立ち去れ。

永遠の苦痛などそこには存在しない。




さあ、そこから出る階段を探し出せ。蛍光灯の点滅する光が上へと続く階段を浮かび上がらせている。

ゆっくりでいい。足を乗せろ。暗い闇から這い上がれ。

ヒタヒタと乾いた足音が階段を上がっていく。それは自分の足下からついてくる。


目の前に扉が現れたら、まず鍵がかかっているか確認しろ。どうせ施錠などされていない。

ノブを掴み、回せ。中の住人に聴こえるくらい、激しく回せ。

扉を叩け。扉を叩け。扉を叩け。

呼び鈴は鳴らせない。鈴の音は意味を成さない。


それら全てが嘘だったかのような静けさで扉を開き閉じろ。

音をたてるな。足音をたてるな。息は細く、聞き耳をそばだてろ。

瞬きをするがいい。意識を明確に別けることが必要だ。

これは夢か。それとも現実か。


そしてゆっくりと横たわっている者に近づけ。

耳元で生ぬるい息と一緒に言葉にならない音を吐き出せ。




何を囁くかは体が覚えているだろう。




夜が好きだ。夜には何かがやって来る。そしてそれを毎夜待つ。


暗闇からやって来る誰かは、今夜あなたの所へやって来ただろうか。

その顔と、その声と、あなたは出会っただろうか。




いくら待っても夜の待ち人は来ないだろう。それはあなたが誰よりも知っているはずだ。


夜が好きだ。光のない、星さえも輝かない、そんな夜が好きだ。

いつまでも終わることのない深淵の闇を、人は待ち焦がれている。今宵も落ちてしまえ。

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