16.契約のキス

 恋人を失った悲しみに何に対しても手つかずになってしまい、食事さえ喉を通らず衰弱しきってしまったルピナス。そんな彼女を港に連れ出したのは、凱旋パレードを終えブクリエに戻ろうとしていたキクロスだった。



「僕の今の立場もあって、ナスタチウムには敵対心を持たれてしまってね。劣等感を抱かれるほど、僕は騎士として出来た人間じゃないのだけれど」



苦笑するキクロスは、今にも泣き出しそうな彼女を見て足を止める。



「僕のことが好きだっていうのは嘘だね?」


「いえ、私は貴方のことをお慕いして…」


「本当のことを話せない理由があるみたいだから、無理には聞かないよ。でも君からは、ナスタチウムを愛していることが凄く伝わってくるものだから」



彼女の頬を伝った涙を、指先でそっと拭おうとしてやめる。



「一人の女性がこんな風になってしまうほどに愛されていたナスタチウムが羨ましいよ」



ルピナスは不思議そうにキクロスを見上げた。

 世間知らずな彼女から見ても、キクロスは港町だけでなく騎士や使用人たちの間でも人気であることは明白だった。いつ見ても人に囲まれていて、その中心にいるような人物のように思えた。

 けれど今隣を歩く彼の目はどこか寂し気だった。

 船着き場の桟橋に腰を下ろす彼に倣って、ルピナスも足を海に放り出すようにして座った。



「拾い世界を見て来た旅人が、みな口を揃えて言うことなんだけれどね」



橙色に染まる空を仰ぐキクロス。



「世界には想像も出来ないようなことが沢山起きている」



ずっと下を向いていたルピナスが顔を上げる気配に、キクロスは静かに微笑んだ。



「旅人がよく話してくれるのは、自国では考えられない文化を持った国の話。どの旅人たちも揃って話してくれるのは四人の魔術師の話かな。信じる人は少なくて、魔術師の話をするとこの国ではほら吹きだと笑われる」



眉をハの字にして彼は「僕は信じているんだけどね」と肩をすくめた。



「世界には想像も出来ないようなことが沢山起きているって言葉、今物凄くしっくりくるよ」


「どうして?」



彼女の問いかけにキクロスは微苦笑した。



「好きでもない男と結ばれようとしているいじらしい君の存在も、君の髪はどうして突然に色を変えたのかも、想像できたかい?」



はは、と力なく笑う彼は「それに」と続けた。



「君のことばかり考えるようになるなんて、そんなの恋じゃないか。親友の愛する女性を奪おうとしてしまう未来なんて…今まで想像もしたことがなかった」



 夕日の沈みゆく水平線を眺めるキクロスは、淡く薄橙色に染まっている。海の彼方向こうから吹く潮風に戯れるようにしてなびく彼の長髪は、さざめく波のようでもあった。



「心配しないで、僕は見返りを求める質じゃない。君がナスタチウムのことを愛しているのに僕と結ばれようとするのにはどうしてもそうしなければならない理由があるんでしょ?」



何も答えることが出来ず口を閉ざすルピナスの頬を両手で覆う。



「君の想いを尊重したい。だから君から許しを得ずに僕が君に何かをすることは決してない。けれどせめて…僕にも君を愛させてほしい」



罪悪感に打ちひしがれたような表情を隠そうと何とか微苦笑してみせているキクロスに手を伸ばし、抱きしめる。

 キクロスもナスタチウムも、相手のことを思い過ぎて自分の心を不自由にしてしまうところがそっくりだった。

 唐突に、幼い子どもを抱きしめるように抱擁してくれたルピナスに驚きの表情を浮かべるキクロス。

 報われないキクロスが放っておけないのか、それとも彼に少しずつ心を開き始めているのか、ルピナス自身にもよくわからなかった。



「何も聞かないでくれて、私のことを想ってくれてありがとう。私も貴方の想いに応えられるように、少しずつ貴方を愛していきたいわ」



離れようとしないルピナスからは好意ではなく覚悟が伝わって来た。観念したといった風に苦笑しながら嘆息したキクロスは、彼女の手に回そうとした手を静かに引いた。



「君の一番にはなれなくても、僕は必ず君を幸せにしてみせるよ」



契約を交わすかのように、どちらからともなく顔を寄せる。






 その後正式にルピナスを妻として迎えたキクロスは、多くの人から祝福された。

 彼の所属する二番隊では訓練の予定を変更し、ブクリエの庭で二人を祝福するパーティーが開かれた。

 キクロスを慕っていた女性の使用人たちも、残念がりながらも彼が幸せになるならと祝福の言葉を贈っていた。

 港町はこれ以上ないほどのお祭り騒ぎで、そこに住む人みんなが二人を祝福するために沢山の贈り物を用意した。生きのいい魚を使った料理や、珍しい絹織り物で仕立てられたドレス。港の子どもたちは綺麗な石や貝を渡し、キクロスと馴染みのある若者たちは音楽や踊りで二人の結婚を祝福した。丁度この港に降り立った旅人たちも、久々に合うキクロスの成長に涙を流して喜んだ。

 妻となったルピナスの家族にキクロスが挨拶に行った際も、娘の呪いが解けていることとキクロスを結びつけて考えた彼らは、キクロスを娘の恩人だと涙を流して感謝の言葉を何度も述べた。

 二人の結婚は誰もが知るところとなり、それは王族である者にまで及んでいた。

 ルピナスは髪色のことで蔑まれることもなくなり、ラシーヌからの密かな監視の目からも解放された。

 夫となったキクロスを傷つけないためにも、彼女はナスタチウム以上に彼を愛していると周囲から思われるよう生涯演じ続ける覚悟でいた。

 それでも家に一人きりになった時、ふと考えてしまうのはいつもかつての恋人ナスタチウムのことばかり。もしナスタチウムと結ばれていたら、今頃どんなくらしをしていたのだろう、と。

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