15.天秤にかけるのは、己の恋情と愛する者の命

 呪いが解けたことに誰よりも早く気がつき、喜んでくれたナスタチウムにルピナスは一方的に別れを告げた。



「どうして?」



狼狽するナスタチウムに本当のことを話してしまいたかった。

 しかしそれを許さないように、背後に聳え立つ城からラシーヌの見張るような視線がある気がした。



「…別の人のことが好きになったの」



ナスタチウムを傷つけてしまう、一番つきたくなかった嘘だった。だけど、この嘘がなければ愛するナスタチウムは殺されてしまう。自分の恋情よりも、彼の命の方が大切に決まっていた。

 けれどナスタチウムとキクロスの間に蟠りがあることは何となく気がついていたから、誰とは決して言わなかった。それなのに



「…キクロスがいいなら、そう言ってくれ」



眉をハの字にして微苦笑する彼を見て、覚悟していた心が揺らぎ途端に崩れ落ちそうになった。

 本当のことを全部話してしまおうか。ナスタチウムと結ばれたことで彼が殺されても、私もすぐ後を追えばいい。話せばきっとわかってくれる人だということはわかっていた。死が待っていることを聞いても私と一緒になってくれる自信があった。けど、私がナスタチウムに死んでほしくない。



「ごめんなさい、ナスタチウム」



明言をする必要はない。だってこれは全て残忍な魔法使いにつかされている嘘なんだもの。

 ブクリエの庭を振り返らずに走り抜け、彼と過ごした温かな日々から自分を遠ざけた。こんな酷い仕打ちをした女にまだ手を伸ばしてくれている気配があり、涙を必死に堪えた。

 使用人室へ戻る最中、足がもつれて転んだ。悔しさに強く草を握りしめる。



「呪いをかけたあの魔法使い…絶対に赦さない。私からナスタチウムを奪い、私に彼を傷つけさせるなんて。絶対に赦さないわ」



ルピナスの心に悲しみと憎しみの暗雲が立ち込めた時、視界に現れたのは見知った靴だった。使用人たちとは違い、立派な靴だ。ナスタチウムも履いている、騎士専用の靴。

 かぐわしい花の香りがすると思えば、頭上から黄色の花びらがひらひらとまるでモンキチョウが舞うように降ってきた。

 顔を上げようとすれば、それよりも先にその靴の持ち主が動いた。手を差し出すのではなく、転んだルピナスの横に寝そべったのはキクロスだった。



「ナスタチウムと喧嘩したのかい?」



 花びらがなくなり茎だけとなったそれに視線を落とし、蝶々結びにしながら彼は私に問うた。キクロスの存在は呪いの一つでもあるはずなのに、ルピナスは彼に縋るように嗚咽を漏らした。



「おやおや、何があったのか全て話してごらん。楽になるよ」



彼のどこまでも優しい声音がルピナスの心に触れたのはこの時が初めてであった。

 ルピナスはナスタチウムに別れを告げたことと、そしてその理由がキクロスを愛してしまったからだと話した。口外してはいけない以上、仕方なくついた嘘だった。

 しかし彼女を見ていれば言外のうちにそれが嘘なのだということをキクロスは悟った。

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