In the rain 灰色の魔法使いと憧れる少女

森月 優雨

プロローグ <前編>

 プロローグ <前編>


 その日も冷たい雨が降っていた。

 モノクロな世界で、僕は雨に濡れていた。

 空を見上げれば灰色、視線を落として、座り込んでいる地面も灰色で、重たい身体を預けている壁も灰色だ。ひりひりと痛む口元を拭ってみると、その手には赤色がついていた。綺麗で鮮やかな色ではない、汚れた赤黒い色だが、世界から色が消えたりなんかしないと、当然のことを確かめられた。

「おい、そろそろ謝ったらどうだ」

 そう呟いた目の前の男は、獣のようなギラついた目で此方を見下ろしている。

「なあ、もういいんじゃねえか? 江崎さん。こんなガキ、もう充分じゃないっすか? 雨も強くなってるしさみーよ」

 取り巻きの男の一人が寒そうに腕を擦りながら、江崎と呼んだ男へ呟く。朝から降り続いているこの雨だが、男の言う通り雨足は強まる一方だ。雨ばかりのこの街でも、この日は滅多にない土砂降りだったと思う。

「いや、まだだ。……こいつの目」この冷めた目が気に入らねえと鋭い視線が僕を貫く。

 江崎と呼ばれた男は、こちらを睨みつけたまま、この一方的な暴力の中断を拒否した。

 これだけ殴っておいてまだやるっていうのか。身体は雨に濡れて冷えきっていて、指先は氷のように冷たいが、散々と殴られてきた頬だけがじんじんと熱を持っている。痛みを通り越して感覚が鈍くなっている頬の存在を確かめるように、手で触れてみる。腫れた頬に冷えた手を当てると、ぼんやりとしていた意識が少しハッキリとしてきた。

 土砂降りの中、雨に濡れることをまったく気にせずにこちらを見下ろす飢えた獣のような男。それを見上げながら、僕は自身の置かれた状況を再確認してみる。


 ここは駅前の賑やかなメインストリートを逸れた路地裏だ。袋小路になっていて、逃げ道はない。時刻は夕暮れ。まだ日が落ちる前だが、分厚い雨雲と周りが明かりに乏しいせいで、この袋小路はだいぶ薄暗い。僕の周りにはガラの悪い、いわゆる不良達が五人。歳はおそらく高校生か、大学生ぐらいだろう。僕を取り囲むように四人の男達が遠巻きにこちらを見ていて、目の前には江崎とかいうリーダー格の男がいる。

 江崎、この男だけは他の奴らと違う雰囲気を纏っていた。こいつだけは学生には見えない、その黒々としたオーラは、不良も通り越して暴力団の一員なんじゃないかと思わせる。目つきの鋭さや、ドスの効いた低い声もそうだが、額と口元にある傷跡がより一層そう思わせた。

 胸ぐらを掴まれて、無理やり身体を引き起こされる。

「おい、てめえ、今何を考えてる?」

 今考えてること? お前の人相が悪いことだよ、なんて悪態を心の中で返事する。口元が切れていて、喋るのも億劫なのだ。

 さて、何故こんなことになったんだっけか。迫り来る拳を見つめながら少し前の出来事を思い出す。

 

 朝から雨が降り続いたこの日、僕は上機嫌で終業のチャイムを聴いていた。一人でにやけているのも気持ち悪いので、表情には出さないように努めながら席を立つ。

 雨が降っている、これだけが僕の生きる意味だった。

 僕の住む雨神(あまがみ)市は、一年を通して雨が多い街だった。これは僕のような人間にとってはとても好都合であり、同業者達も多くが好んでこの街に移り住んでいるらしい。らしい、というのは父から教わったから知識としてあるだけで、他の同業者と直接の交流を殆ど経験してないからだ。

 僕が通う水上(みずかみ)中学校から自宅までは、歩いて三十分程の距離だった。学校から家路へ向かうと、十分程で賑やかな水上駅前のメインストリートに出る。そのまま日上山(ひがみさん)の麓にある住宅街を目指していく。

 駅前のメインストリートは、片側二車線の大きく広い車道と同じ様に、歩道もそれなりに広くなっている。しかし、この時間は人通りが多いこともあるが、雨が降っているので、道行く人がみな傘をさしていることもあってとても歩きにくかった。気をつけていても、傘と傘が触れてしまう。ただでさえ人混みが嫌いなこともあって、雨が降っている時にこの通りを歩くのは好きではなかった。

 この日もうんざりとしながら歩いていると、ある雑居ビルの一階にあるタバコ屋の前で、ガラの悪い連中がたむろしていた。歩道の半分以上を塞いでいて、ただでさえ混雑している通行を妨げている。

 関わるとロクな事にならないだろう。誰もがそう思いながら、その一帯にまるで穴が空いているかのように避けて歩いていく。

 いつもならどうでもいい、関係ないと気にもとめないのだが、この日の僕は違った。

 何故だろうか。自分でもその謎の感情には驚いた。

 他人なんてどうでもいい。

 関わる必要がない。

 そうやってここ数年は生きてきた。だというのに、今の僕の心では、モヤモヤとした、文字通りモヤのかかった感情が声をあげていた。

「お前はそれでいいのか?」と誰かが問いかけてくる。「それ」とは何のことだ? そいつが僕の何を否定しているのか。それすらわからない。

 頭での理解を待たずして、心の奥底に眠っていたナニカが僕の体を動かした。

 周囲の人間が避けていく中、僕は真っ直ぐとタバコを咥えながら騒いでいる連中に向かって歩いていく。自分がさした傘を相手の傘に当てるようにして立ち止まる。

「お、なんだおまえ」

 僕に傘を当てられた男が振り向いた。想像通り、そいつは馬鹿そうな阿呆面で僕に視線を向ける。他の奴らも似たような阿呆面ばかり。まるで自分達が世界の中心だと勘違いしているような、愚かな連中だった。

「あんたたち、邪魔なんだよね。馬鹿だからそんなこともわからないのか?」

 僕は淡々とそんな言葉を吐き捨てた。呆気に取られる馬鹿達。僕の至極端的でシンプルな言葉を理解するのに時間がかかっているようだ。

 だが、その中で一人だけ、その他と違う反応を見せる金髪の男がいた。

「今の、俺らに言ったのか?」

 

 そうしてわざわざ人気の無い路地裏に連れ出され、江崎とかいう男に暴行を受けているわけだ。

 後悔をしているかと言われれば、していないと思う。今この状況も含めてどうでもいいからだ。

 退屈な日々。

 つまらない学校生活。

 くだらない世の中。

 本当に……どうでもいい。

 どうでもいいから、早く終わってくれないだろうか。僕は早く帰りたいのだ。そんなことを考えていたら、思わずため息が洩れた。

「なんだお前、ふざけてんのか? 殺すぞガキ」

 この状況でため息は不味かったらしい。殴り飛ばさていた身体をまた無理やり起こされる。

 江崎の纏う空気がまた一段と黒く濁る。これが殺気というやつだろうか。言葉通り、本当に殺されそうな圧がある。

 殺される?

 魔法も使えないやつに。

 「魔法使い」の僕が?

 ──ありえない。

 僕がその気になれば、こんな奴ら十秒とかからない。魔法を使えば可能なことだ。

 そう。簡単なことだった。

 

 こんな奴ら、殺してしまえばいいじゃないか。

 

 そうと決まれば話は早い。一気に思考がクリアになる。この男が僕が生き絶えるまで殴り続けるのか、刃物でも持っているのか、その手段は知ったことではないが、こちらにも人を殺す手段、力がある。雨さえ降っていれば、僕はこいつらと同じ人間ではない。

 相変わらず睨みつけてくる江崎からは視線を外し、付近に使えそうな物が無いか探す。

 ──見つけた。

 取り巻きの男達の後ろに二メートル程の鉄骨が無造作に置かれている。僕からの距離は七〜八メートルといったところだろうか。問題ない、あれは使える。

 鉄骨に視線を固定し、いつも通りイメージする。

 明確に、鮮明に。

 想像(イメージ)する。

 創造(イメージ)する。

 こいつらを殺す、そのイメージを。

「おい、覚悟はできてんだろうな? てめえ」

 江崎の声は邪魔なので聞き流す。

 イメージは出来た。後はいつも通りやるだけだ。

「もう止まらねえぞ俺は」

 江崎が強く握りしめた拳を振りかざす。

 ──先ずはこいつから。その後に残りの連中だ。やるなら五人全員だ。目撃者がいなくなれば、何も問題ないだろう。

 空想(イメージ)を現実へ、非常識を常識へと塗り替えようとしたその時、雨音をかき消すように、凛とした女性の声が響いた。

 

「ストップだ少年」


 一瞬、唐突に雨が止んだような、そんな錯覚。


「それ以上は取り返しのつかないことになるよ」

 

 鼻の先には男の拳がすんでのところで止まっていた。

 その場の全員が、声の主に視線をむけている。それはもちろん、僕も含めてだ。

「なんだあ? 邪魔すんなよ、女」

「女がこんなとこに何しにきた?」

「見せ物じゃねえぞ」

「……いや、それよりもそれ、どうなってんだ?」

 声の主である女の周囲には、妖精が飛んでいた。童話の中の空想。ありえざる存在。神秘のカタチ。妖精としか形容できない、手のひらサイズの水のニンゲンモドキ。それらが女の周りを飛び回っている。

「綺麗で可愛いだろう? 幼い頃の私が心を惹かれてやまなかった絵本から持ってきてみたんだ」 

 その女の言葉を理解できる者は、この場では僕しかいなかった。それはそうだろう。だってあれはどう見ても──

 胸ぐらを掴んでいた手を急に離された。足に力が入らず、勢いよく地面に尻もちをつく。不思議なもので、殴られるとわかっていながら殴られた頬より、急に地面にうちつけた身体の方が強い痛みを感じる。

 痛みに顔を歪ませながら、その女を僕は見た。

 女は、雨にも打ち消されない、燃え盛る炎のような赤色だった。

 赤い傘をさしていて、腰まで伸びた赤の髪、凛として耀く瞳も赤色。黒いロングコートを羽織っているのが、より一層赤色を際立たせている。モデルのようなスラっとした体型で、年齢は二十代になりたてに見える若々しさと、二十代後半にも見える落ち着いた雰囲気を両立させている。口元にはタバコを咥えていて、生き生きとした端麗な顔の周りを紫炎が揺らめいていた。

「私はただの通りすがりなんだけどさ。まあ、なんだ。止まってくれて何よりだ。助かってよかったね」

 その視線が向けられているのは僕なのか、江崎なのか。

 果たして、助かったのはどちらか。助けられたのはどちらだったのか。

「なんなんだよてめえは。その……飛んでんのはなんだ? 手品か?」

 取り巻きの男の一人が、こいつらにとっては当然の疑問を投げかける。

「ああ、これは魔法だよ。私、魔法使いだから」

「──は?」

 思わず驚きと呆れのブレンドが口からこぼれてしまう。

 この女、今なんといった? いや、それ以前に見せびらかすような水の妖精たちからだ。何を考えてるんだ? 僕が言えたことじゃないかもしれないが、その女の行動、言動は魔法使いとして信じ難いものだった。

「魔法だあ? なんだこいつ、イッちまってるんじゃないか」

「その飛んでんのもなんか仕掛けがあんだろ。そんなんでビビらそうってか?」

「……いや、こいつ、あれじゃね? 今噂になってる赤い傘の女。天罰事件とかいうのの……」

 僕もその天罰事件とかいう安直なネーミングの事件のことは知っていた。それに、事件が続くに伴って流れている噂も聞いている。

 赤い傘の女。それは街を騒がせている連続殺人事件、通称天罰事件の犯人と噂されている人物だ。

 子供のように傘をくるくると回して遊んでいるこの女。その姿は、噂の人物の特徴とあまりにも酷似している。

「まあ、私の正体なんてどうでもいいんだけどさ」

 灰色の煙を吐き出しながら、よく通る声を路地裏に響かせる。

「そこに倒れてる少年以外には用はないんだ。と言うことで君たち、さっさとどっかいってくれない?」

「あ?」

 その挑発に、即座に江崎が反応した。

「確かに、てめえが殺人鬼だろうが、ラリった女だろうがどうでもいいがな、俺を舐めてんじゃねえよ。俺はどこにも行かねえし、てめえもただで帰れると思うなよ?」

 江崎の標的は、僕から女へと完全に移り変わった。取り巻きの男たちも、じりじりと囲むように女に近づいていく。

「はあ、今時の若者は怖いもの知らずだねえ。いいよ、ちょっと相手してあげる。後悔するなよ君たち。なんたって私は──」

 女は悪魔めいた笑みを見せたかと思うと、紫炎を燻らせながら言葉を放った。

「超一流の魔法使いだからね」

 この女はまたしても、軽々と魔法使いとしてのタブーを犯したのだった。

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