第15話○猫
――ああ。それっぽいな。
サイに言われて、ジルは彼を窓辺に置いていた。1階で最も日当たりのいい窓を開ければ、室内に爽やかな風が吹き抜ける。白髪の後頭部から下がる長い三つ編みが揺れた。
ゆら。ゆうら、ゆら。まるでしなやかな尻尾のようだ。
そんな髪型をずっと見ているわけもなく、踵を返したジルが背を向ける。すると「なぁん」と小さな猫の声がした。たまに現れる客だ。首だけになっても戯れているのか、人の言葉でない声でサイは対応する。
爪を出されてボール遊びにされやしないか。ふと不安になったものの、挟まれる笑い声から杞憂と知る。
お喋りのための移動だったらしい。こうなるとしばらくは続く。ジルは用済みだ。魔法使いの力も宛にならない。ドアを閉める同居人に任されたのは、家事と雑務の始末だけだ。
◇ ◆ ◇
魔力を使う道具でも洗濯は重労働である。洗って絞るまでは頼っても、結局干すのは人力になった。物干し竿に並んだ洗濯物は気持ち良さそうに袖や裾をぱたぱたとはためかせていた。見渡すジルは人知れず満足する。
決められた物事を片付けると確実な達成感が得られる。目標に則って行動することは昔から嫌いではなかった。
ひとつこなせば、ひとつ報酬。
ひとつ殺せば――ひとつ賞金。
出された条件に従い続けた結果だ。悪癖と一蹴するには重すぎる。サイがジルの呪いを全て祓ったとしても、過去だけは切り離せない。精神隅々まで縫い付けられた記憶は綺麗にはならない。
それでも、日向で過ごしてもいいとサイは言った。ジルの生き方を変えたのは間違いなく、あの男だ。
改めて考えると自分もなかなか重いな。ジルはからになったカゴを抱えて戻ろうとして、足を止めた。
竿を支えている柱の根本で動くものがある。近付くと、白い毛並みの猫が尻尾を揺らして行儀よく座っていた。飼い猫か、首輪もはめている。今日はよく猫を見る日である。
「お前もサイに用事か。それとも、先のヤツを待ってるのか?」
「にゃあ」と軽く返事をして、しなやかに足元へと寄ってくる。
鳴き声を理解できないジルはどちらが目的か定かでない。だが構って欲しいのは、なんとなく雰囲気でわかった。
武骨な両手はカゴでなく、ふわふわの毛並みを持ち上げる。大人しく抱えられる小さな体は喉を鳴らした。動物特有の柔らかさにジルの頬も緩む。
「はは、なんだ。連れてけって?」
「にゃうん」
「……しゃあねぇな。サービスだぞ」
◇ ◆ ◇
「サイ、別の客だ。……サイ?」
部屋は静かだった。猫どころか、置いていったはずの窓辺に揺れる三つ編みもない。ジルは早足で入り口から一直線に窓を目指す。猫は自然と腕から降りた。
空いた両手で縁を掴み、身を乗り出す。慌てて眺め、覗き込んだ裏庭には首ひとつどころか、ゴミひとつ落ちていない。
「冗談じゃねぇぞ……!」
本当に猫に遊ばれ、連れ出されたとしたら大変だ。そんなわけあるか。あのサイが。
至極冷静に思う反面、面白さにかまけてやりかねない現実にジルは額を押さえる。
とにかく周辺を探すしかない。それでもなければ町に行き、情報屋に流して、知り合いに転送で旨を伝え……。
人海戦術に覚えのない人間にとって苦痛の作業になる。とにかく捜索に向かうべくジルは踵を返した。すると、連れてきた猫がそのまますり寄ってくるのかと思えば、
「冗談にもしたいさ。こうすれば初めから動けたんだ」
流暢にサイの声で喋った。
言葉を失い、目をかっぴろげるジルの前で、サイの声を出した猫はのびのびと体を伸ばす。
「灯台下暗しとはこのことだ。変身を忘れてたなんてさ、これなら自由にできる」
よく見れば瞳は黄緑で、首輪も黒いあのチョーカーだ。棒立ちのままの相棒を置き去りにするサイは愛らしく気品ある姿で流暢に宣った。
「やるなら、何か言え」
「言ったら驚かないだろ」
「驚かす以外の選択肢は無いのか」
「無い」
脱力だ。思わずしゃがみこんだジルの鼻先に、サイも自分のを近付ける。
「どうだい、これ。つい抱き締めたくなるだろう?」
「……人間全員が猫好きだと思うなよ」
「君は嫌いじゃないもんな」
また尻尾がご機嫌に揺れた。あれは三つ編みの名残らしい。
「人や首には難しい場所も、猫なら行ける。さっきの客から聞いてね。どうやら体の噂が随分広まっているようだ。首のレプリカが出回っているそうだよ」
巷では有名な魔術師の数奇な噂に乗じた商品が流通していた。猫はそれをたまたま見かけ、本物の様子もからかい半分で見にきたそうだ。
「お前より悪趣味な奴もいるんだな」
「で、僕も見物に行こうかと思って」
「輪をかけるな、輪を」
座ったままのジルの腕のなかにサイは無理矢理体を捩じ込む。瞳に赤の光を宿して鳴けば、蕩けるように首の姿に戻った。
「だって、僕で儲けようとする輩の顔も見たいじゃないか」
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