第12話●湖

 その湖は拓けた場所に堂々と横たわっていた。森がわざわざ専用にあつらえたように、空間を作っている。広々とした穏やかな湖水は時折吹く風で陽光をきらきらと反射させている。白とも銀にも取れる煌めきの眩しさにラピスは眼を細めた。二色の眼差しが纏うものよりも生命力に満ち溢れている。

 太陽を受けて反射させる青い水面と、深くも柔らかく湖を取り囲む緑。邪魔する余計な雑味がない景色はいつ来ても、いたく涼しげだ。静かで清らかな湖はラピスのお気に入りの旅行先だった。


  ◇  ◆  ◇


 散策を趣味にし始めたエクスは、ラピスとも屋敷の外に出掛けている。本で得る以外の学びに触れられる機会は少女に毎回喜びをもたらした。異国の町や有名な観光地。事前にラピスが本で見たところを訪れることもあれば、エクスの興味に任せて気の向くままに歩いたこともある。建築物も枚挙に問わず、惹かれるものがあればそれだけで切っ掛けになっていた。

 眼前の湖は彼らの住む屋敷からさほど遠くはない場所にある。徒歩で行くには距離があるが、泊まるにしては物足りない。移動はエクスにかかれば一瞬で済む。あまり考慮しなくてもいい事柄だったが、まずは近場を把握する意味合いも兼ねて、周辺の森も含めてエクスが選んだ。

 初めて訪れたときのラピスは、急に現れた景色に歩みを止めた。

「きれい……」

 吐き出された感嘆の響きには驚きが一番多く滲み出ていた。話だけは知っている実物を目にする新鮮な喜びは掛け替えのない貴重な体験だ。

 これで海を見たら彼女はどう反応するのか。苦笑するエクスが思っていたよりも後日のラピスがはしゃいだのは、想像に難くない。

 森も広大で散策のしがいがあった。以来、湖はピクニックに向かう定番の場所になっている。

 今日はすでに森を歩いたあとだ。病気や魔法に使う薬草の簡単に教わりつつ、到着した。いつもの畔でエクスは宙で敷物を出現させ、なだらかな斜面に広げる。オレンジと黄色のチェック柄が可愛らしい布は一人と首ひとつが余裕で寛げる大きさだった。ラピスは布の上に持ってきたバスケットを置くと、自分は座らずに湖面の淵に立った。両手を湖に向かって出すと傍らでエクスが見守るなか、言葉を紡いだ。

「『来て』」

 水色と紫の双眸から湖面にも負けない輝きが溢れ出す。星雲のような魔力の流れが小さな掌に届いた。すると水面がぐっと持ち上がり、水の塊が球となって浮き上がる。

 透明で歪な玉は見えない膜に包まれているように見えた。大きさもあって、まるで透明な風船だ。不安定な塊は呼びかけに応じてラピスの手に一瞬乗ったが、すぐに崩れて液体に戻った。

 流れ落ちた水はかろうじて足を濡らしてはいない。水に触れた掌を見つめていたラピスは、エクスに差し出されたタオルに気付くと手を拭いた。

「どうだった?」

「上出来だ。随分と上手くなっている」

「やった!」

 褒められたラピスは得意げに胸を張った。手を洗うためにわざわざ水を操るのは魔力のコントロールを見るためだ。

 ラピスは魔力を自在に扱う術を知らない。呪文や言われた通りのことしかできなかった。彼女が持っている容量であれば、呪文がなくとも呼びかけるだけで事足りる。しかし。自らの意思でどう使いたいか命令なく明確に想像できないため、力を持て余していた。居場所を持ったラピスは、次の望みをエクスに話した。

 次は自分の力を、自分で使いたい。

 立つ場所を得たことで目標を得た成長を、エクスは手放しで喜んだ。一目で気に入った少女の目に見える進歩に感動すらしていた。

 望むならば与える魔神の教えは、一般的な魔術とは異なる。だが、それでよかった。ラピスが知りたいのは複雑な魔法を使うためではない。呪文も魔法陣もいらない。ルールや道具を知るのではなく、己をどう向き合っていくかだけだ。

 水の塊も初めはできず、水面が上下に波打つだけで終わっていた。形になって大きさも安定してきた手応えに、ラピスの機嫌も上々だ。敷物の上に座るとエクスに見えるように、作ってきたサンドイッチとマフィンを取り出す。サンドイッチは分厚く、スモークサーモンと玉ねぎやレタス、ゆで卵のスライスが挟んである。マフィンにはベリーとナッツを混ぜてある。両方ともラピス手製のものだ。具材はエクスが用意しているものの、パンやマフィンは自ら焼いている。

 実はキッチンで火を使うのも学びのうちに含まれていた。火と魔法は密接し、水や風、土などの魔法の記号と言われる要素に通じるものがある。今はマッチに頼っているが、そのうち火種を魔力で生み、増大し、消すことすら容易になるだろう。

 もしかすればエクスのように無から有を出すこともできるかもしれない。ツノを光らせて珈琲を出す魔神に未来の自分を重ね、サンドイッチを頬張りながらラピスは想像した。手振り身振りだけでテーブルが豊富な料理で埋め尽くされる。圧巻だが、どこか寂しい気もした。

「いろんな手間が省けるのは便利だけどなぁ」

「その通りだ。片付けるのも楽に終わる。魔法とは本来、そういうものだとも。しかし手間をかける自体にも価値がある。行為に意味が重なり、愛おしむ心が生まれる」

「それもそうだね」

 料理を生み出す楽しみを思い、ラピスは素直に同意した。何事もなくサンドイッチが食べ進められる隣でツノの輝きが鈍る。発言が深々と刺さったのは、言ったエクスの方だった。

 手間をかける行為に比例して、大切に思える価値を抱く。

 己を喚べただけで気に入っただけの、人間であるはずなのだが。魔神の存在を側に欲した理由は特殊ながら魔力以外に興味はなかったはず、なのだが。


 そよ風が吹く。撫でられて微かに波打ったのは水面だけだったのだろうか。


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