第10話●来る

 人に忘れられた屋敷はどれだけ直されようと、分厚い扉を叩くものは一人もいない。手掛けた人間が近くにいるのならまだしも、一晩の間に魔力で生まれ変わった屋敷だ。木々の深い緑が覆う森では見掛けるのも難しい。もし以前の住人が外部との交流があったとしても繋がりが途絶えて長い年月が経っているのは、荒れ果てた室内から明らかだった。

 加えて。今の主であるラピスには身寄りがない。彼女の所在を知る、あるいは知りたがる人物はいないと自らエクスに語っていた。町に出たり遠方に出ても、配達する荷物は頼まない。重いものや、頼みもしない値の張る品はエクスの魔力で全てが事足りてしまう。

 外との協力が皆無に等しくとも、ラピスたちは平和に過ごせている。これからも立派な玄関が叩かれることはない。ラピスどころか、エクスも思っていた。

 だが。それは思い違いだった。


  ◇  ◆  ◇


 料理を作る楽しさを知ったラピスは焼き菓子のレシピをテーブルに置き、冷やした生地をパイ皿に押し付けていた。

 彼らはいつも揃って一緒ではない。やっと顕現できた魔神は外界の散策を楽しみ、細工品の収集を趣味にし始めていた。ラピスも自由の喜びは十二分に知っていて、窓から手を振って見送った。深い森の探索で、エクスが人と鉢合わせる失敗をする可能性は低いだろう。今も森を首だけで浮遊して、小鳥たちを騒がせているに違いない。

 町に出たとしても不用意に人を驚かせることもないはずだ。あればラピスにも危害が及ぶ。愛しの星に襲い掛かる火の粉をエクスは許さないだろう。

 飽きられていないと信じる少女は、まだ魔神が守護してくれるとも信じている。

 帰ってくる頃には焼けるかな。紅茶はエクスに味見してもらって、出してもらおう。この間のも美味しかったな。次はどんなのかな。

 パイ生地が整うと、近くにあった片手鍋の蓋を開ける。前もって煮詰めていた林檎だ。シナモン特有の甘い香りを浴びながらフィリングを詰めるラピスからは自然と鼻唄が生まれていった。


 用意したアップルパイをオーブンに入れて十五分が経つ。香ばしさに満たされつつあるキッチンで意気揚々とラピスはティーセットを用意していた。が、廊下から聞こえた音に手を止めた。

 硬質な板を叩く音だ。ゆっくりと三回響いて止まり、一呼吸おいてからまた叩かれる。

 カップを棚に戻すと廊下を覗く。無論、誰もいない。いるはずもない。だが、今も響いている。ラピスは耳を澄ませ、恐る恐るも我が家を守るための一歩を踏み出した。探ると出所は容易く見つかった。有り得るが有り得ない場所に、手前で立ち止まる。

 オッドアイの前にはラピスたちが住んでから、外部を許したことのない玄関があった。扉の向こうから、ノックの音は続いている。

 開けた方がいいのだろうか。ラピスは困惑していた。見ず知らずの来訪者の存在は恐怖だ。しかし、諦めずに応答を待たれているのは事情があるのかもしれない。エクスが出払っているこの屋敷で判断できるのは己だけだった。

 胸の前で強く組んだ両手が離れない。じんわりと手汗をかいているのがわかる。返事をする声もろくに出せなかった。開けた先でまた殴られたら。蹴られたら。それよりも家を取られ、エクスまで奪われたら。嫌だ。絶対に、そんなことはさせない。

 乾いた細い喉に唾液を押し込み、ラピスは決めた。

 まずは、エクスを呼ぼう。全部それから。それが最優先。

 いつの間にかノックも止まっていた。距離を取ろうと片足を引く。すると、ドアをすり抜けて何かが踏み込んだ。

 右足だ。よく磨かれた茶色の革靴を履いている。続いて現れたのは同じ靴を履きこなした左足。靴に見合った派手過ぎないスーツに包まれた長身過ぎる体躯。そして――きっちりネクタイを締めた襟元から上には、輪っかと立方体で構成されたようなが物体が浮かんでいた。

 見上げるラピスに、顔とおぼしき部分からのびのびとした声が降り注ぐ。

「こんにちはぁ、お邪魔しまぁっす」


  ◇  ◆  ◇


 テーブルには少し焦げたアップルパイがある。六等分にされたうち、三つは大皿に乗せられたままだ。

 残りのひとつはエクスの前に。ひとつはラピスの前に。さらにひとつは、突然の来客の前にだった。

「悪いなぁ、折角のオヤツ焦がしちゃって」

「詫びに何か置いておくかね?」

「あいにくポケットは空っぽだ」

「ははは、常套句だな」

 エクスが自分以外向かって気楽に笑うのを、ラピスは初めて見た。気心知れた会話だけ聞けば、急な来訪に湧くお茶会に思えるかもしれない。彼らの見た目が『普通の人』であれば、より普通に見えただろう。ラピスが眺めているのはツノの生えた首と、輪の内側で立方体が次々と数を変える頭をした人間らしき何かだ。


 突如として扉を通り抜けた異形頭にラピスは声も出せずに弱々しく膝を折った。無い目で見つめられる瞳の奥が熱い。ラピスが秘めている魔力が暴れているのだろう。エクスを召喚したときと同じ感覚だった。

 呆然と見上げるだけの少女に対して、相手は頭部を真横に傾げた。輪がくるくると回り、内部の立方体が激しく分裂する。

「……あれ。デウス・エクス・マキナを呼ばないのか?」

「デ……、え……? エ、エクス……?」

「おお! そう呼ぶのを受け入れている! んー、かなりのお気に入りと見た!」

 聞き馴染みのある単語が溢れる。ラピスが思わず聞き返すと、相手は大きな手を楽しげに叩いた。拍手を浴びせられる理由がわからない。当初とはまた違う意味で困惑する。

 噛み合わない両者の間に、話題にされていたエクスが姿を現した。黒いひとつ目の生首は青いツノを薄く発光させ、ラピスを庇うように浮遊する。

「気に入らないかね、アンティキティラ」

 名前を知っているのは、どうやらエクスの知り合いらしい。一触即発の雰囲気に見えたものの、杞憂に終わった。

 廊下にまで漂ってきた香りに異形は声を揃えて「焦げる」と呟く。途端、姿を消した。発生源が自分の焼いていた菓子だと気付いたラピスも慌てて立ち上がる。一直線で台所に駆け込めばきつね色より濃く焼かれたパイを楽しそうに掲げる来訪者と、菓子に合う紅茶を吟味するエクスがいた。

 なんて奇妙な光景なんだろう。すっかり毒気が抜かれたラピスは彼らの動くままに合わせ、パイにナイフを入れてお茶会を開催するに至っている。


 焼きすぎたパイのほろ苦さは思いのほかちょうどよかった。これでもかとぎっしり入れた林檎の甘酸っぱさで中和されている。魔神の選んだ紅茶は言わずもがなな相性だ。味わいたいラピスだったが、置かれている状況が状況でいまいち浸りきれない。そんな少女の複雑さをわかっているうえで、パイを食べながら異形頭は自己紹介を始める。

「改めてはじめましてを、だ。俺はアンティキティラ。エクスの同胞。アンティでも構わないね」

 同胞と名乗るのを聞いて、ラピスはアンティキティラが魔神だとやっと理解した。初めて出会うエクス以外の魔神に背筋を伸ばすも、不思議な構造の頭部にどこを見ていいかわからない。

「は、はじめまして。ラピス・ラズリです」

「うわー、ちゃんと挨拶してくれる。いい子。いい子だ。こんな子ばっかり召喚してくれればいいんだがなぁ。それでも飽きるから魔神はどうしようもない!」

 魔神らしく驚く人間には慣れているのか、アンティキティラは挙動不審さを指摘しない。一瞬真剣な声色になったかと思えば額らしき部分に片手を当てて嘆き、すぐさま抑揚激しく高らかに笑う。

 浮き沈みの激しさについていけないラピスに、エクスは気にしないよう伝える。

「いつもこうだ。彼に付き合うのは慣れと技が必要になる。無理はしないことだよ」

「ああ、非道い。酷いなぁ。お前のためにパイを焼いてくれる子だぞ! 俺とも相性はいいさ。ね? そうだろぉ?」

「ほどほどにしたまえよ。星の子と遊ぶために来たのではないとは既にわかっている」

「お見通しが早い。流石さすが」

 いつの間にかアンティキティラのパイは無くなっていた。フォークを持った腕がテーブルを横切り、銀色の切っ先が大皿の一切れに沈んだ。伸びたのは、アンティキティラの腕だった。

 バネ細工が戻るように腕は素早く収縮する。その途中でひとくち、ふたくちとパイが欠けていく。

「でも、まずはお茶を飲ませてくれよ。エクスの茶と人の菓子のティータイムなんて、この先何百年あってもお目にかかれないからな!」

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