第2話○食事

 よく熱したフライパンにベーコンの脂が弾ける。表面が焼かれる音に混じって、食欲の湧く匂いが広がった。聴覚と嗅覚で嫌でも目と食欲が目覚める。サイは眠くなくとも長い睫毛を閉じ、小さくとも機能的なキッチンを満たす朝の香りに浸った。

 彼のいるテーブルには野菜とトーストの乗った皿が既に用意されている。白く長い三つ編みの先が、爽やかな朝風にそよいでいた。それだけでサイのいる風景は滑稽なほど絵画になる。男性ながらも美人と称される顔貌で優雅に珈琲を淹れつつ、朝食の完成を待っていた。

 今日の朝食当番はサイに背を向けてキッチンに立つ長身の男だ。ベーコン表面に茶色の焦げ目がつき始め、脂も十分に溶けたら割られる卵は二つ。火加減を弱めてじっくりと火を入れている。

「ジル、今日は半熟がいいな」

「大体いつもそうだろ」

「たまによく焼くじゃないか」

 注文を付けられたジルは振り向いて、サイを一瞥した。黒い短髪をオールバックにした厳つい外見だが、手にしたフライ返しがうまい具合に相殺している。銀色の吊り目が威圧感を与えてくるものの、サイにはよく見る光景だ。口許に微笑みを浮かべ、淹れたての珈琲の香りに耽る余裕を見せていた。

 ジルは表情を変えずに閉口し、勢いよくコンロを止める。そのままフライパンを持ってキッチンを出ると、皿の上にベーコンエッグを盛り付けた。ベーコンの美味しい脂で固まった白身の真ん中に、絶妙な火入りの朝日より眩しい黄身が鎮座する。毎度ながらジルの腕前はサイの期待を裏切らない。見事な焼き加減だ。

 流し台に器具を置いたジルもエプロンを椅子にかけて着席した。だが折角用意した理想的な朝食に手をつけず、向かいの顔を見ている。さっきまでの他愛ないやり取りとは違い、しかめ面は朝に合わない憂色を帯びていた。

「……そんなナリでも腹は減るんだな」

「減るんだよ、不思議なことに」

 白葡萄のように瑞々しい黄緑の瞳が真っ直ぐにジルを見上げていた。朝食を挟んだ対岸には肌触りのいいタオルや布が敷き詰められた麻籠があった。その中で皿の黄身のように生首は――サイはこじんまりと収まっている。不安めく視線を受けても、事もなげに飄々と頷くばかりだった。


  ◇  ◆  ◇


 高名な魔術師であるサイと、護衛業などを受け持つジルは街から少し離れた一軒家で暮らしていた。サイは優秀な才能と強大な魔力を持ち合わせているが、その掴みどころのない性格と抜きん出た天才であるために敵も多い。さらに整った容姿も相まって酷く目立ち、気付けば恨みを買って狙われることもある。

 とあるきっかけから彼はジルと契約を交わし、護衛役にスカウトした。今では公私ともに信頼できるパートナーとなり、毎日を過ごしている。

 そんな、ある日のことだ。夜間警護を依頼されていたジルは一晩、家から離れることになった。サイを通じて請けた仕事は、彼の作った魔法道具の移送を警護する内容だった。

 だが、その途中で業務に纏わる真実を知ると容赦なく道具を奪還し、阻む追っ手を倒しながら道を引き返した。

「サイ! サイファー! どこだ!」

 未明と一緒に家に戻ってきたジルは、時間帯も構わずに腹の底から声を張り上げた。大声を響かせながら玄関からありとあらゆるドアを乱暴に開け放つ。ジルの仕事は囮だ。本命は、一人になったサイを襲撃することだった。裏切りにも腹が立ったが、素直に受けた自分の判断にも苛立つ。

 サイなら問題ないと、彼の力量への信頼もあった。

ところが、どれだけ名を呼ばれても家主は一向に返事をしない。募る焦りに落ち着けと言い聞かせながらも気持ちに急かされる。作り溜めた道具を保管する一室を開けたとき、彼は言葉を失った。

 整然と並べられていた棚がいくつか倒れている。激しい攻防が繰り広げられたのは明らかだ。折り重なる棚の手前で何かの液だまりにそれは転がっていた。

 夜明けが始まったのか、明かり取りの高窓が室内に微かながら光をもたらす。地平を滲ませる暁によって詳らかにされたのは、赤黒い液体に汚れる長い白髪を持つ首だった。トレードマークのチョーカーも残ったままで。

 衝動的に駆け寄ろうとしたジルだが、足を急に止める。

 動いたのだ。血溜まりの中で。首が。勝手に。

 異常とわかる様子に近づきたくとも近づけない。首は器用に三つ編みを使って、仰向けに転がる。サイはやれやれといった素振りで駆けつけた相棒へ自身の血で汚れた頬を見せた。

「今回は負けたよ。仕込んでおいて正解だった」

「な、っ……な……!?」

 ジルは言葉が出ない。それでもサイは見慣れた顔で、聞き慣れた挨拶を、異常な姿でそつなくこなした。

「やあ、おかえり。早速だが困ったことになった」


  ◇  ◆  ◇


 声にならない感情を顕にするジルを思い出しながら、サイはトーストを齧った。キツネ色の香ばしさと芳醇なバターがまろやかに口内に広がる。ベーコンエッグの塩気や珈琲の苦味との相性も抜群だ。

 最高の朝食に舌鼓を打つ生首とは対照的に、ジルはげんなりとした様子で額を押さえ、食べ進めていた。

「お前はそういう奴だったよ」

「心配損をさせたね」

「朝食までねだるか? 普通」

 そもそもジルがいないときに何があったか。どうして生首だけで生きているのか。自力では移動できない首をサイは拾い上げてもらい、魔法で自身と部屋を片付けつつ説明した。

 ジルの予想通り、仕事は囮だった。本命はサイの魔力だ。力を秘めた肉体ごと奪うことだったらしい。実際、サイへの伝を頼ってきた依頼者も、名前と顔だけ知っている魔術師だった。首謀者と裏で画策し、恩恵を得る算段を立てていたのだろう。あわよくば二人を始末した肩書きも得ようとしていたに違いない。

 だが、サイも易々と身体や魔力を盗まれるわけにいかない。以前からもしもの最終手段として用意していたのが好みのアクセサリーでもある、首のチョーカーだった。

 特殊な呪文を内側に刻んでいる特製品は万が一の事態に陥ったときだけ発動する命綱だ。おかげで、今のサイは一時的な不老不死になり、一命は取り留めている。

 首はよく喋り、動いているが、奪われた身体は仮死状態だ。感覚は繋がっておらず、身体がどんな状況に晒されているかはわからない。しかしサイは首だけでも魔法が使える。首があり続ければ宿る魔力は本人しか使えず、肉体も外傷を受け付けはしない。何人たりとも勝手に利用することはできなかった。

 しかもチョーカーはサイ以外どころか、当人も外せない。解除呪文を作っていないのだ。首と胴体が再び元に戻らない限り、サイを傷つけることも死なせることも不可能だった。

「まさかちゃんと日の目を見るとはね」

「よくそれで生きてるよな……本当に生きてるのか?」

「生きてるよ。魔法だってこの通り。このサイファー・デマントにできないことなどないさ」

 生首は得意気にカップを浮かせ、ティースプーンで中身を調子よく混ぜる。所在不明の胴体があるのに、鼻歌すら出てきそうな余裕だった。ジルは呆れてものも言えない。もう文句も出てこない代わりに、ため息がこぼれそうになる。

 首があるかぎり不老不死ということは、首をどうにかすれば身体や魔力も容易に扱えてしまうということだ。相手もサイが自身の防衛をしないはずがないと、不信感を持ち始めているかもしれない。

 サイも考え無しではない。他の手も用意しているだろうが『自分にはジルがいる』という理由も、あからさまに透けていた。見ろと言わんばかりに示されている。守りたい気持ちと頼られる照れ臭さをジルは多少は感じたが、予想される事態への面倒臭さが遥かに上回っていた。

 自身でも上手く焼けた目玉焼きで不平不満を押し込むジルを尻目に、サイはいつもと違った目線から見る食卓を満喫していた。

「やはり料理は材料から生み出すに限るね。今の体じゃウインクでトーストが精一杯だよ」

「嘘つけ。珈琲まで淹れられるだろ」

「淹れたいよ。だって君も好きだろう? 僕の珈琲」

 ちょうどジルがカップに口をつけたタイミングで、サイはウインクを飛ばした。容姿がいいのは利点であり美点だ。どんな見た目になっても格好がつく。ジルの内側で苛立ちがもやつくも、珈琲は黙って飲み続けられる。悲しいが否定は、出来なかった。

 無言の肯定は証明だ。さらにサイの気分は上がる。

「例え客人の全てが偽りとしても、探る手段はいくらでもある。食べたらお返しを考えるとしよう。腕が鳴るね、とびっきりのものを用意しないとな」

 冴え渡る頭脳が楽しげに算段をつけていく。己が生首になった現状、報復や敵の背景すらも含めて愉快に捉えていた。功績に比例する奇行で界隈では異端児とも称される。

 相変わらず厄介者らしい思考回路だ。思わずジルは口許を緩めた。小さく肩を震わせて目尻を下げる。徹夜で働いたのが祟ったのか、大きな欠伸もついでに出てくる。すっかり気の抜けた顔をサイが愛しげに見つめていた。

「ほどほどにしとけよ……またややこしいのが増える。あと、俺は寝る。珈琲が出来るなら洗い物もいけるだろ。……任せた」

「いいよ、昼には起こそうか?」

「頼んだ」

「よく眠れるおまじないは?」

「断る」

「つれないなぁ」


 姿形変わろうと。見える景色が違おうと。夜も朝もやってきては、賑やかにも穏やかにも過ぎていく。

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