第7話 女

そろそろこたつを出す季節だろう。

床暖房やホットカーペットは、タンスの奥の奥にしまわれてしまって埃まみれになっているかもしれない。

寝るときの毛布は、もはや必須。夜中に寒くて起きてしまっては、心地いい夢も見られない。

さて、君がどこに住んでいるかは知る由もないが、そこはここより寒いだろうか?

ここはどこか、と声が聞こえる。それは、愚問だ。

日本語で、ここと問われれば、それは日本の絶対的中心、ここが指す場所は、必ずそこなのだ。

そう、ここは東京。世の中のすべてがそこにある。

大学進学のため、上京する娘に親父が厳しい声をかける。「東京には気をつけろ」

そう、東京には気をつけろ。

はは、危ないから?違う、親父はきっとそういう意味で言ったんじゃない。

楽しまれすぎて飲み込まれないように、だ。



19時。街の盛り上がりはピークに達する時間。どこもかしこも、黄色い灯りが見えて、夜が迷子になってしまったよう。

その細道、東京駅から続々と出てきたサラリーマン達のひときわ大きな声が反響している。

静かな足音が鳴って、朱色のドアがゆっくりと開いた。

「失礼します」

リクルートスーツを着た眼鏡をかけた真面目そうな女性が、入ってきた。

「いらっしゃい」

「いらっしゃいませ!」

威勢のいい優菜の声が店内に響く。前の騒動があってから、彼女は少したくましくなったようだ。

女性は三橋を見るやいなや両手を顔に覆いながら、驚いた!といわんばかりの表情である。

「お世話になっております、三橋さん」

「あぁ、米山さんじゃないですか。お世話なっています」

三橋が、頭を下げた。その軽い会釈にも、三橋の礼儀良さが垣間見える。

「ラーメン屋、されてたんですね」

「あぁはい。……誰にここを?」

「会長さんから、です」

「あぁそうですか」

会長……優菜は考える。そういえばここのラーメン屋の客層、とうかメインターゲットは一体どの層なのだろうか。あまり考えたことがなかったけど、ふとそう思った。

そもそも、あんまりお客さんはこない。来たとしても、上下黒の無地のユニクロか何かで揃えた普通のおじさんがきたと思えば、スーツで決めた難しそうな顔をしている要人っぽい男性だったり、と様々である。

あ。前に芸能人らしき人もきた。テレビをあまり見ないので正直興味なかったかスルーしたが。

そして皆、ラーメンを食べるのだ。おじさんはニコニコしてるし、難しそうな顔をしたお客さんたちもラーメンを食べている間は、少し隙ができたように必死に食らいついている。

彼等は皆、三橋と少しはコミュニケーションをとっている。何やら政治的な話で、あまり深追いしたこともないが、「財閥」やら「予算決裁」など難しそうな単語が飛び交っている。

ここは「一見様お断り」のラーメン屋。だから、皆一度は来たことがあり三橋と面識があるということなる。

今だにこのラーメン屋の全貌と三橋の正体が掴めない少しの恐怖を感じながら、優菜は床にモップをかける。

「会長、元気ですか?」

「はい。今年の8月に88歳を迎えたのですが、もう本当に元気でピンピンしてますよ」

「それは良かった」

ごくどこにでもありふれた会話が聞こえ、優菜は安心した。前回のあの喧嘩騒動が少し異常すぎただけだ。

「ラーメン頂いていいですか?」

「もちろん」

三橋は、やっと背を向けてコンロに火をつけた。三橋の巨体にひけをとらない大きなフライパンにそのまま油を浸す。

女性は、少ししてから優菜の方を見た。そして優しく笑いかける。

「お疲れ様です。従業員の方ですか?」

「あ、はい。ここで」

優菜は慌てて気付いたように、水を差しだして女性のすぐ前においた。スーツを脱いでカジュアルな白のシャツになった彼女から、ふんわりとバニラの良い匂いが香る。

「ありがとうございます」

女性は、口をスッと水で濡らす程度にしてから、コップを置いた。

「大学生の方ですか?」

「あぁはい。大学2年生で」

「あぁそうですか。成人式はもう終わりました?」

「はい、とても楽しかったです」

「はは、成人式っていいですよね」

女性は口元を隠すように上品に笑いかけたのち、あぁ申し訳ないというように、スッと顔をすぼめた。

「ごめんなさい、私ったらいきなりプライベートの質問ばっかりしてしまって」

「あぁいえ、全然大丈夫です。むしろウェルカムですよ!」

優菜がおどけていってみせると、女性もはは、と今度はさっきよりも豪快に笑った。

「ありがとうございます。凄いパワフルで、三橋さんといいコンビって思っちゃいました」

素直に嬉しい言葉だった。元気はつらつやってきた甲斐がある。

三橋は、鉢にたまった黄金色のスープに麺をしなやかに入れ、はいお待ち同様、と女性の前にラーメンを置いた。

「ありがとうございます!」

女性は、いただきます、としっかりと手を合わせてからゆっくりラーメンを啜った。その丁寧で綺麗な食べ方は、今まで見てきたどんなお客さんたちよりも、礼儀良く見える。

一度、女性の方も見えたことはあるが、どこか偉そうで感じが悪かったことを覚えている。「私は女社長だ、君を雇ってあげよう」なんて、上から目線でいってきたから、はは、と苦笑いをするしかなかった。

あんな嫌味な人ではない、目の前の女性はそれを本当においしそうに頬張っている。

女性が啜るラーメンは、そのたびに麺に絡みついたスープが振れ落ちて、ラーメンの㎝みたいだ。パーツが主張しない薄めの顔つきは一見幸が薄そうに見えるが、表情がコロコロと変わるのでどこか愛らしい。特に、ラーメンを食べるその丁寧な大人な仕草となんだか嬉しそうに食べるその子供みたいな表情が相まって、可愛く思えてくる。思わず、優菜も声をかけてしまった。

「ラーメン、おいしいですか?」

「……はい。とっても!」

口の中にラーメンを詰め込んで言ってしまった彼女は、すいません、と恥ずかしそうに謝る。優菜も、笑いながら「ごゆっくり」なんて言ってみせる。

三橋も、厨房で後片付けを行っているが、その背中はいつもより暖かみが籠って見えた。ラーメンを啜る少しの音と、顔を赤らめているだろうサラリーマンたちのいつもより大きな様々な会話が、環境音と交差して喧噪となり聞こえる。


今日の東京は暖かさがある。外れた道のこんな店内にも、その優しさはきっとしみ込んでいるはずだ。

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