第5話 あの件

ここのいいところはどことも距離が近いところだ。つまりアクセスがいい。

全国の交通網が、ここに集中する。

しかし、便利さと比例するように人も多い。そしてみんな、どこか他人事。ここの人間が冷たいと言われるのは、決して比喩なんかではないだろう。

エスカレーターは左に並ぶ。あえて右に並ぶような人間は、ここではみんな無関心。

ここは、そんな冷たい街。しかしアジアを代表する街でもあろう。そう、伝統ある日本の首都、東京である。

東京は人を待たない、人が東京に追いつくまでは。

早足で東京を追い越してみよう、びっくりした東京の顔がいくらか滑稽に思えるはずだ。



21時。さっきぽつぽつと雨が降り出した。

強いわけでもなく、弱いわけでもない、ただ傘はさしとかなきゃいけないそんな中途半端な雨。

パイプ管には雨が当たって、それが小さな細道に反響している。その小道は、雨のせいでより一層視界が悪くなる。

朱色のドアが空いた。入ってきた霧雨が、ドアつけ根のところで滴になった。

「いらっしゃい」

「いらっしゃいませ!」

入ってきた人、眼鏡をかけたどこにでもいそうな男である。

男は三橋を見ると、スッと頭を下げた。

「久しぶりです、三橋さん」

「……田上か」

どうやら、また関係者のようだ。

三橋のその声に、初めて喜びの感情が見えた気がした。優菜も、これを逃すまいと、盆栽の周りを綺麗にする作業の傍らで、二人に注目した。

「ラーメン屋、やってたんですね」

「そう」

三橋は、それだけのラリーをしたらすぐにトングで煮込んだ豚バラを取り出す作業に戻った。

今までの経験上、もうそれ以上の会話はないだろうと思い、少しがっかりして優菜はまた盆栽に向き合おうとした。

しかし意外にも、また口を開いたのは三橋の方だった。

「この場所、誰から聞いたんだ?」

「海部さんからです。三橋さんにまた叱られていたって喜んでました」

「……そうか」

なんだか重要な話をしている。海部?まさかあのイケメンのことだろうか。盆栽の作業をしたりしなかったりしながら、優菜は耳だけに神経を集中させて作業を続ける。

田上、という男は少し疲れたようにグッと身体を上に伸ばしてから、はぁと大きなため息をついた。

「俺、もうこの仕事疲れちゃいましたよ」

「……まだ続けてるのか?」

「もちろんです、日本を守る重要な任務ですから」

三橋は、豚バラを全部取り出した後、そのままボウルを冷蔵庫の中に移した。

「……ラーメン食べてくか?」

「いいんですか?」

「ちょうどもう、店閉めるところだったからな」

三橋が、自分からそんなことを言うなんてよほど田上のことを気に入っているのだろう。

三橋をそこまで動かす男の正体を知りたかった。

トントンっとシルク内で軽くボウルの水を切ってから、コンロの上にある大きな寸胴の下に火が灯った。

それを三橋がゆっくりと回す間、田上は思い出したかのように優菜の方を向いた。

「あなたが、アルバイトの方ですか?」

「……あ、はい。そうです!」

「はは、海部さんからも聞きましたよ。元気のいい子がいるって」

田上の柔和な口調に、優菜も少しリラックスすることができる。

「ラーメン好きなんですか?」

「あぁいや、そういうわけじゃ……」

田上は一瞬、考えるように首をかしげた後、

「まぁ、色々あるんですね」

とそれ以上は追及してこなかった。

この男、色々と察知する能力が高いようだ。そういうところも三橋に気に入られる所以なのかもしれない。

「はい、おまちどう」

優菜と田上の一連のやりとりがちょうど終わったと同じタイミングで、三橋は彼の前にラーメンを出した。

田上は、わぁと顔を輝かせる。

「いただきます」

丁寧に手を合わせてそう言った後、スルスルと麺をすすった。麺にからみついたスープがはじけるように、スープの水面に落ちてゆく。

田上は、くぅっと少年みたいな嬉しそうな顔をして三橋を見た。

「三橋さん!めちゃくちゃおいしいです」

「良かった」

それっきりまた三橋は洗い物の作業に戻る。いつまでも盆栽掃除をしているわけにもいかないので、テーブル席を意味もなく吹き始めてなんとか誤魔化す。

今日の東京は雨だ。地面に雨がポタポタと落ちる音に、男が丁寧に麺を啜る音が店内に響く。

静けさと共に、温かさがある店内はどこか懐かしさすら覚える、そんな穏やかな空間だった。

田上は、チャーシューを口にする。ほろりと落ちる肉のほつれがスープに振動していく。

丁寧に、それでも勢いよく食べる田上に三橋もどこか満足そうだった。

スープを一口。二口、三口、ともはやとまらない。

「ぷはぁ!」

田上はラーメンをたいらげた。

少し息をついて、また三橋の背後に声をかける。

「おいしかったです」

「そりゃよかった」

彼はこのまま席を立つかと思いきや何か言いたげな様子で、ボウルを洗う三橋の背中を見ていた。

「……三橋さん、海部さんからも聞いたと思うんですけど」

その言葉に三橋も背を向けたまま応答する。

「現場に戻れってやつだろ?」

「……はい」

「俺はもうしないよ」

田上は、その三橋の答えを聞いてもまだ諦めきれない様子だった。

「でも三橋さんだって、最近のあの件、耳に入ってますよね」

「周り見ろ」

三橋にそう言われて、彼はハッと優菜を見た。さっきとはうってかわって何か焦っているような、緊張している田上の表情に優菜も少したじろいでしまう。

「すみません」

「……耳に入ってるよ。けど俺は、もう戻れない。それに俺の知識はお前たちに全部教え込んだはずだ。もう俺がやれることはなにもない」

「そんなことないですよ!三橋さんが戻ってきてくれれば……!」

田上が語尾に力を込めたその時だった。

ガンっと朱色のドアが勢いよく開いた。籠った空気と入れ替わるように冷たい飛沫風が店内に入る。

「貧乏くせぇ店だな」

入ってきた3人の男。青と赤のアロハシャツを来た若い男2人は、三橋と田上を見つけるやいなや、ニヤっと笑った。

真ん中の一番背の高い、スキンヘッドに黒のタンクトップのそこの男。目元に龍が吠えるタトゥーが入っている。

「いらっしゃい」

「……い、いらっしゃいませ」

優菜が、思わず出した声は震えたものになってしまった。

田上は、3人を睨みつける。三橋はこの事態など気付いていないように、もくもくとボウルの水を切って調理器具の洗い物に移った。

「どなたですか?」

田上は柔和な口調だが、そこには敵対するような意志も混じっていた。

「どなたでもいいだろ」

アロハシャツをまとった金髪の方が対応する。そしてすかさず、スキンヘッドの方を見た。

「今生さん、あのデブが三橋ですか?」

「あぁ、そうだよ」

低い獣みたいな声で、スキンヘッドの男が答える。アロハ2人は、またニヤっと笑った。


雨降る東京の街、外出する人々は少ない。

細道にある一つのラーメン屋の灯りは、殺気と冷たさが混じっている。


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