第4話 日本
日本には四季がある。春、夏、秋、冬、と4つの季節を巡りに巡って、外国から来た人々は日本の移り変わる景色を楽しむ。ジャパニーズサイコーです、と浅草寺とサクラの2ショーットを撮って喜ぶ外国人が目に浮かぶ。しかし忘れちゃいけない、日本にはもう一つサイコーなものがある。
そう、日本には東京がある。あなたがアメリカに行けばニューヨークに行くように、フランスに行けばピサの斜塔や凱旋門に行くように、南極大陸に行ったらペンギンを見るように、彼等も東京に行く。
そして言う。ジャパニーズサイコーです。しかし残念、彼等が見たのは仮初の東京に過ぎない。
アメリカに行けばアップルの跡地に行くように、フランスに行けばフランスパン以外のパンを食べるように、南極大陸に行けば崩れる氷河を見張るように、東京に行けば、ラーメンを食べた方がいい。もちろん普通のラーメン屋の話でない、ジャパニーズが真にサイコーな所以がわかる、ラーメン屋の話だ。
東京の街も少し涼しくなってきた。いや、寒くなってきた、と言った方がいいかもしれない。
コンビニにも「おでん」の暖簾が出てきた。そろそろ、温かいものが恋しい季節になってくる。
その細道も、秋の冷たさを含んだ風が吹く。冷たさも相まって、夜は一層暗くなる。
朱色のドアがそっと開いた。
「いらっしゃい」
「いらっしゃいませ!」
静かに入ってきたその男、黒のスーツを決めた細身で中々見た目がいい。
銀色の眼鏡をクイッと上にあげて三橋を見た。
「久しぶりです、三橋さん」
低く落ち着いた口調でそう言った男に対して、三橋は何も答えない。ただ黙ってキャベツの芯をむいている。
優菜は二人を交互に見て、知り合いなんですか?と少し興奮したように言った。三橋の正体を知りたい、と思うのは優菜も例外ではない。
男は優菜をチラッと見てから厨房で背を向ける三橋に言う。
「誰ですか?この子」
「……バイト」
男はそれまでの冷静を乱したかのように、えぇ?と呟くように言った後、また優菜を見た。その目、冷酷さを含んだ冷たい目である。
「三橋さん、アルバイトなんて雇わないんじゃないんですか?」
「気が変わった」
「はぁ?あんたそんな心変わりしたことなかったでしょ?」
剥き終わったキャベツをサランラップで閉じて、三橋は色とりどりのものが見える、野菜室にしまう。
それ以上のことを問いただしても答えないことは、三橋の広い背中を見ていたらわかった。
男は不満そうに黙って優菜を見た。優菜も案外イケメンなその男に見つめられて少しドキドキする。
「失礼ですが、どのような手使ったのですか?」
男は表情に似た冷酷な口調で、優菜に言った。
「どのような、手?」
「三橋さんほどの人が心変わりするなんて…一体どんな風な手を使ってここで働くようにしたのか、できればお教えいただきたいのですが」
「いや、私別に何も」
「何もって、はは。そんなわけないでしょう。そもそも…あなたはまだ随分若そうに見えるのですが」
「大学生ですけど…」
「大学生…若さを使ったってことですか?」
男がそう言った時、三橋は小皿を戸棚から出しながら、男を睨んだ。
「お前は昔から、お喋りが過ぎる」
殺気すら感じるような低い熊のような唸る三橋の声に、男は思わず押し黙ってしまった。
目線を外した三橋が、皿の上にコマ切れのブロック肉を置いている間も、男は蛇に睨まれた蛙みたいに緊張した顔でその場に佇んでいる。
三橋がようやく次の作業に取り掛かったところで、男は、ふうっと息をついてから
「やっぱりあなたにはかないません」
と言ってカウンター席に腰かけた。
「ラーメン、注文してもいいですか?」
三橋は、男に背を向けたまま軽く頷く。
二人のやりとりを間近で見ていた優菜は、今度は違う意味でドキドキしていた。しかしなんとか震える手で男のそばに水を差しだした。
「これ、水です」
「あぁ、ありがとう」
男の口調はさっきまでのものと違い、穏やかな口調だった。何か合点がいったのか、そこに冷酷さは見えない。
三橋が寸胴の中身を大きなヘラにようなもので丁寧にかき回す後ろで、男はその後ろ姿を見ていた。手持無沙汰になったのか、隅で置物みたいにジッとする優菜に向かって話しかける。
「バイトの子、さっきはごめんね」
「あぁいや、大丈夫です」
「ここ、楽しい?」
「あ、はい。あんまりお客さんはこないけど…」
「はは、そっか。ところで、ここ時給いくらなの?」
「えっと、1100円です」
「意外と普通だね。いやぁもっとあげてもいい気がするけどな」
男はさっきまでとは打って変わってひょうきんな口調だ。優菜は、ますますこの男の正体と三橋の正体までもがわからなくなる。
「あんまり喋ると、また怒られちゃうからね」
男がそんなことを言っている間に、三橋はラーメンを男の前に差し出した。
「はい、お待ちどう様」
黄金色のスープが輝くラーメン。見た目は案外どこにでもありそうな気がするが、これが本当においしいのだ。
男は、これだよ、と楽しみが隠し切れないような口調で、
「すみません、いただきます」
ととっくに洗い物に移った三橋の背中に向かって言った。
男が豪快にラーメンをすする。そのまま続けてもう一口。箸と全く同じデザインのレンゲでスープをすくって一口。そのまま止まらぬ様子で、麺、スープ、麺、チャーシューにたまご、と次々とを口に運んでいく。
イケメン男が窮屈そうに身をかがめながらラーメンを食べる後ろ姿も悪くない。優菜はそれを見ながら、どこか良いものを見ている気分になる。
ラーメンのすする音と換気扇の音だけが聞こえる店内は、外の静かさよりも少し温かかった。
そして、ようやく鉢の中身が全てなくなってから男は一言、
「うますぎる」
と溜息にも似たような様子で呟いた。
「旨い。うますぎる。これが東京だよ。これが東京を現したラーメンだ」
男は興奮した口調で続ける。そこには、もう入ってきた男の雰囲気ではない、ただのラーメンマニアみたいである。
そして、ようやく息をついてから男は三橋に言った。
「ねぇ三橋さん、もう現場はこないんですか?」
「いかないよ」
「……そうですか。でも俺はまだまだ頑張ります。この東京を、いや日本を守るために」
男はそう言い残して、カウンター席に1万円札を3枚、スッと置いた。そのまま立ち上がり、優菜に深く頭を下げた。
思わず優菜も頭を下げる。
そしてそのまま、風のように男はドアを開け去っていった。
カウンター席の3万円を優菜はジッと見つめる。まさか、このラーメン一杯3万円もとるのか?
「……あいつは昔の馴染みだから勝手に3万も置いてっただけ」
優菜の心を見透かすように、三橋は洗い物をした皿をペーパーでふき取りながら言った。
昔の馴染みとはどのようなことだろう。日本を守るために、と言って出ていった男の真意が気になる。
あのイケメンともう一度会えるだろうか、そんな期待を微かに抱きながら、優菜はカウンター席を台拭きで拭いてゆく。
外も寒くなってきた、そろそろラーメンの季節だ。
東京の宙には、いくつもの福沢諭吉が舞う。
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