第3話 気まぐれ
地方衰退化が進む昨今、若者は田舎を捨て都会に出ていく。上京先は東京。最先端の街、景色、圧巻される。テレビやスマホで見るだけじゃわからなかった本物の街。
いかにもオシャレな服を纏い、ヒールをカツカツと鳴らしながら歩く女。高層ビルを眺めるその阿保面に向かって意地汚く笑ってくる。お上りさん、なんて心で言われてる気がする。
しかし、心配ご無用。その女が抱かれた東京なんてこれっぽっちで安いもの。まだフレッシュな若さがあれば、何にでもなれる柔軟さがあれば、誰も知らなかった東京に出会うことができる。
入り組んだ裏路地に光るその場所は、いつか歳老いて田舎に帰ったときの思い出話にはちょうどいい。
日つけが変わる11時前。今日は休日で晴れていたから、東京は多くの人で賑わっていた。皆、どこかにこやかな顔で歩く良い景色。
しかし夜は、違う。一人一人の声のデシベルが少しずつ上がり、それは街全体の賑わいになって喧噪がし続ける。昼の穏やかさをひきずったまま、夜はいつもより一層に盛り上がる。
ドアがバンッと力強く開き、壁にうちつけられて店内に響いた。
「いらっしゃい」
ラーメン屋トウキョーのオーナー三橋は、凄みを効かせるような低い声で言った。
「いらっしゃいませ!」
遅れて、テーブルカウンターを掃除していた優菜が元気よく言う。右手にはパステルカラーの安っぽい緑色の台拭きをもったままで、ハッとした彼女はエプロンの右ポケットにそれをすぐにしまった。
さて、入ってきた男。ネイビーのスーツジャケットはしわしわで、シャツの3番目までボタンを外しているためか、その胸元がはだけてさりげない胸毛が見える。大分酔っているのかふらふらとした千鳥足で、ひょえーなどと発している。
優菜は困った顔で三橋を見たが、三橋は客なんて知らないといわんばかりに、ザルの水気をペーパーでふき取っていた。
「あの、大丈夫ですか?」
「あれ、こんなとこに女の子いたかなあ?しかも結構可愛い。ひょえー」
男は、優菜との距離をグッと詰めて顔を近づけてきた。酒臭い匂いに優菜は思わずたじろぐ。
「ねぇ、ここ何屋さん?色街?キャバクラ?風俗?」
好き勝手な男に、優菜は今にも泣いてしまいそうである。三橋は、もっていたザルをシルクの壁にカンカンっと叩いて水気を取ってから男を睨みつけた。
「お客さん、ここラーメン屋ですよ」
「あれ、あんたもいたの?なんだよ女の子一人じゃないんだ」
男は、腹をわざとらしくポンっと叩いた後、ちょうど腹減ってたんだよ、と呂律の回らない調子で言った。
「ラーメン屋なら、はやくラーメン出してよ」
機嫌を悪くしたのか、語尾の強い調子でそう言う男。
「すみません、一見様お断りなもんで」
「いちげんさまあ?お客様は神様だろうがよ!」
男は目の前のカウンター席をドンドンっと2回ほど叩いて怒鳴った。優菜は恐れをなしてしまって動けずにいる。
三橋は、言うことは言った、といわんばかりの様子で無視してパックの麺を一つずつ冷蔵庫にしまい始めた。
男は三橋を諦めて優菜を見た。ひっと怯える優菜に男は、にやりと笑ってどんどん近づいてくる。
「なぁ名前なんて言うの?」
「名前、それはちょっと」
「いいじゃん教えてよ。というかこんなとこ出て俺と遊ぼうよ」
垂れた目つきをした男は、今にも優菜の身体を触ってこようとした。その時、ドンっとカウンター席に音が響いた。
「これ、食べたら帰ってくれる?」
カウンター席には湯気たったラーメンが置かれている。食欲をそそるいい匂いで、男は自然にラーメンの方に向かっていく。
そのまま、無言で啜り始めた。うまい、うまい、と言って無心で食べている。
三橋はそんな男の後ろで、洗い場をしていた。優菜は、呆気に取られているのを、三橋が、「お水出してあげて」と言って急いで水を出した。
スープまで飲み干し、男は急に無言になる。さっきまで騒がしかった店内が、まるで嘘だったみたいに静寂に包まれた。
「あの、すみませんでした」
男は三橋と優菜、それぞれに向かって頭を下げた。
「あの、お値段の方って」
「800円」
ラーメン屋トウキョーのラーメンは一杯800円なんだ。優菜はそれを始めて知った。
三橋の大きな手のひらに、男は800円を置いた。
「ありがとうございました」
もう一度、男は優菜に頭を下げて言ってからドアを開けて出ていった。
「800円なんですね」
「適当に言っただけ」
「えぇ?」
再び静けさが戻った店内。しかし、対照的に東京の夜はまだ騒がしい。優菜が本当の東京のことを知るのはまだ大分先の話である。
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