第2話 出会い

君は、東京と聞いてなにを思い浮かべるだろうか。沢山の人、高層ビル、最先端の街並み、下町人情から風俗街、ネオンのきらめき……。

日本の首都、東京のは全てがあると皆は言う。しかし、果たしてどうだろう。

君は、まだ東京を知らない。本当の東京はもっと裏の、奥の入り組んだ場所、誰も寄り付かないように息を潜めてそこに静かにある場所。ネズミが足元を駆けていったのに驚いて音をたてぬよう、その朱色のドアを開けてみたら、わかるはずだ。



19時。この時間の東京は騒がしい。男女が逢瀬を重ね、疲れたサラリーマンが上司と社会の愚痴を言いあう。そんな時間帯。

パイプ管と何かがぶつかったような、小さな衝撃音がしてその後スッと朱色のドアが開いた。

「いらっしゃい」

ラーメン屋トウキョーのオーナー三橋は、低く鋭い声で言った。

入ってきた女、三橋の声色に恐れたのか若干尻込みしたように、2、3歩ジリジリと退く。大学生ぐらいといったところ。カラ元気みたいなハツラツさとあどけなさが、いちいち大げさな仕草と表情から見て取れる。

涼し気な夜風が店内に入る。野鼠が女のすぐ足元をタッタっタっと駆けていくのに、女は、ひっ、と声にもならぬ声を発した。

「ネズミとか入ってきちゃうんで閉めてもらっていいですか」

「あっ!はい、あ、すみません」

三橋の冷淡な口調で、女は店内に入った。ドアは風の力を借りてゆっくりと時間をかけてしまる。

「あの!」

大きな声で言う女。静かな店内にその声が響いた。三橋はビクともせずただ調理器具の洗浄をしている。

「ここでアルバイトさせてください」

女は、精一杯の力のこもった目で三橋を見つめた。三橋は目も合わさずに、ただ黙って先の長い包丁の柄の部分を水でこすっている。

三橋からのこれ以上の応答がないのを早々に察した女は、一瞬躊躇うように目線を下に落としたが、それでももう一度大きな声で言った。

「私の兄が、あなたに救われたと言っていました。結局最後まで会えなかったけど、兄は手紙であなたに感謝していました」

女は握りこぶしに力を込めてとても悔しそうに続けた。その声色には涙が混じっている。

「私、兄に最後まで何もできなかったんです……だから兄がどういう人だったのか、ここにいればわかるかなって」

ついに、ポロポロと泣き出した。浅瀬の水が上から下にちょろちょろと流れるように頬を伝って床に落ちている。

三橋は洗い物から続いて、戸棚にかけてあるまな板を手にとった。

「お兄さんがここに来たことがあると言ったんですか?」

「はい、兄が……死にそうになったときにラーメンを食べさせてもらったって」

女は、勢い増した大粒の涙を床に溢しながら言う。シックなグレーの床に、水滴が何粒も弾けては溜まった。

三橋は小さな溜息をついて、

「……兄妹揃って泣き虫だな」

と女に聞こえるか聞こえないかぐらいの声量で言った。泣きじゃくった顔の女が、え?と聞き返したが、三橋はそれには反応せず、冷蔵庫から小さなタッパーを取り出した。茶色の液体に漬けてあるのは染みに染みていそうなメンマである。

「バイト、募集してないんです」

「あっえ、あっそうなんですか」

「はい、一人でやってるもんで」

店内は確かに三橋しかいない。情報漏洩のため他の従業員は取らないのが、ラーメン屋トウキョーである。

ザクッザクッとメンマを切る心地よい音が響く中で、女の腹がぐ唸るように鳴った。思わず腹を抑えて恥ずかしそうに赤面する女のことも、もちろん三橋は気にするそぶりも見せない。

「……今、ラーメンは食べられますか?」

「うち、一見様お断りなんですよ」

「あっ……そうなんだ」

残念がって、大きく肩を落とした女は、何かひらめいたように顔を上げた。

「あっでも、兄がきたことあるので、そういう意味で言ったら一見様じゃないかも……ダメですか?」

三橋は鋭い眼光で女を見た。女はどこか自信気な様子だったが、三橋に睨まれると蛇に睨まれた蛙ように萎縮する。

三橋は白のラーメン鉢を一つ取り出して、おもむろにコンロに火をつけた。

「ラーメンでいいですか?」

「あっはい。もちろんです。あの、ちなみにお値段って」

「……皿洗いで返してください」

何を思ったのか、三橋の想定外の言葉に女は、え、えと驚いたように目を丸くする。

「バイト、いいんですか?」

三橋は、肯定とも否定とも言わない曖昧な返事で、まぁ、とだけ答えた。


夜風が涼しい今日の東京。輝く街にも、行き交う人は様々な事情を抱えている。ラーメン屋トウキョーに新たな風が入ってくる。

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