ラーメン屋トウキョー

夏場

第1話 東京

東京駅を少し抜けたところ、入り組んだ道を入ってファッションビルを背景にブライダルフォトなどが頻繁に行われるそこらを右に曲がると、細い道が3本ある。

一番右、もっとも細い道を行く。室外機が低い音で鳴ってて、パイプ管がひしめきあっている暗い埃っぽいそこを10メートル歩けば右手に朱色のドアがあるはずだ。

そこを開ければ「ラーメン屋トウキョー」、知る人ぞ知る名店である。

一見様お断りのその店は、グルメサイトや食べログなどにはもちろんのっていない。テレビの取材も、今まで一度もない。

つまるところ、そこは、政界のドンや超大御所芸能人、海外の要人から大企業の社長陣など、いわばトップの人間達が足蹴く通う秘密の店なのだ。



深夜2時、眠らない東京の街もこの時間帯は少し静かになる。

何の前触れもなく、重々しい静かな朱色のドアがギギギと音を立てて開いた。

「いらっしゃい」

ラーメン屋トウキョーのオーナー三橋は、低く濁った声で言った。

入ってきた男、弱弱しい身体をして酷く痩せている。病的な白い肌が活気のない青々とした顔を強調させるようだった。

「すみません、ご飯ください」

男は開口一番なんとか絞りだした今にも枯れそうな声でそう言った。三橋は、鋭い眼光をギラッと光らせて男を見る。

「すみません、当店一見様お断りなもんで」

「あぁ、そう。そうでしたか。すみません」

男は、目に見える疲労感溢れる身体をなんとか回れ右に回転し、特に残念がる様子もなくドアノブをつかみ出ようとする。栄養失調みたいな細くやせ細った手は、力を入れればポキッと折れてしまいそうなほどか弱く見える。

男がやっと店内から出ていきそうになる寸前、三橋は、黄ばんだ白シャツのその浮き出た背骨に向けて話しかけた。

「お客さん。本当にお腹空いてるの」

「えぇ?あぁ……はい、とても」

疑問とも肯定ともとれぬ三橋の口調に男は戸惑って遅れて反応した。三橋は、男のその言葉を聞いて、厨房に入る。

「ラーメンでいいですか」

「えぇ、いいんですか」

縦にも横にもデカいガタイのいい三橋と男を比べると、可哀そうなほどにコントラストが目立った。

男はほぼ力が尽きかけたのか、ふらふらと最後の力を振り絞るように木目が綺麗に光るカウンター席に座った。

それ以上、余計なことを話すこともなく三橋はフライパンを上下に振った。

ごとごと、と鳴るフライパン。安いキッチンタイマーの音がピピピと響くと、三橋は力強くザルをブンブンっと振った。水が弾けて小麦色の輝かしい麺は、均一な太さで束になって輝いている。

「あの、本当すみません」

男は申し訳なさそうに言った。三橋は、聞いているのか聞いていないのか、今度はチャーシューを切り始めている。

外の室外機が店内に響く。三橋はネギを切り始めると、口を開いた。

「お名前なんて言うんですか?」

「あぁ、名前……。そういうのは、ないです」

男には、名前がなかった。三橋は顔色一つ変えず、「どういうことですか?」と追随した。

「……俺、本当は国家組織にいたんです。でも色々裏で失敗しちゃって。そしたら戸籍消された後に、存在まで消されそうになりました。終わったって思ったら、最後に一番信頼できる親友が、ここにいけばなんとかなる、って教えてくれて」

「なるほどね」

「逃げて逃げてなんとかここまで……」

男は目に涙を浮かべて悔しそうに言った。三橋は変わらず、メンマを盛り付けることに集中している。

男には色々あったのだ。束の間の喋りなんかでは到底明かすことができない様々なことがあった。

男二人、黙りこくった店内は、涼し気な寝息を立てる外の空気とは違い、奇妙で重い空間だった。

男は店内を見渡した。壁にかかった誰かわからない肖像画や、今まで気づかななかったが、角ばった4本脚のモダンな椅子の上、立派な盆栽が生命力を見せつけるようにそこにあった。

店のテイストがわからない。しかし、男は腹が減っていて死にそうだったのでそんなことを思っては考えようとすることをすぐにやめた。

「お待ちどうさま」

男の目の前に出されたラーメン。メンマ、チャーシュー、ノリ、半熟卵に、ほうれん草が乗っている。

茶色が透けて見える輝いたスープの中には、麺がいた。

一見、一般的なラーメンと変わらない。しかし、男には今まで食べてきたどんなものよりも、目の前にあるそれが輝いて見えた。

「いいんですか?」

「いいですよ、早くしないと冷めますよ」

「……いただきます」

三橋の淡泊な口調に、男は朱色の細い箸で麺を一気にすすった。

「……うま」

気が飛ぶほどうまかった。豚骨か魚介か、味噌でも醤油でも塩でもない、その全てを一瞬にして味わえるような奇跡の味だった。男は錯覚する。こんなにうまいのは自分が生死の瀬戸際にいて、なんとか踏みとどまれたからなのか、はたまた、もともとこんなに旨いのか。スープをすする。ここで確信した。これは、もともと旨いのだ。それは、テレビや常連ができる行列店的な、そういう旨さのレベルではない。正直次元が違う。男が今まで食べてきたどんなものよりも、このラーメンは上手かった。

「旨い……旨いです」

「ありがとうございます」

男は、この後を考えるよりも今はラーメンに集中したかった。一心不乱に麺を頬張るこの瞬間だけは、今までの全ての事が忘れられて気持ち良かった。

三橋は、後片付けを行いながら横目でチラッと男を見る。男は泣きながらラーメンを食べていた。多分、自分が泣いていることには気づいていないのだろう。


深夜2時30分、今日のラーメン屋トウキョーの店内は、湯気とラーメンを頬張る男の熱気に包まれ外よりも少し暖かい。


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