29 答え

 朝から兄と一緒に風呂場にいた。珍しく浴槽にお湯を入れた。兄が沈まないように、ギリギリのところで持って、一緒にお湯に入った。


「ああ、気持ちいい。首だけでも浸かるといいもんだな」

「耳にお湯入ってない? 大丈夫?」

「後で耳かきしてくれよ」


 僕はタオルで兄と自分の身体を拭いてから、綿棒で耳かきをしてやった。自由に動かせるので楽だった。

 それからスマホで調べものを始めた。兄は定位置に置いて、タブレットで映画を見せていた。

 そして、意を決して電話をかけた。


「……はい。はい。よろしくお願いします」


 電話を切ると、兄が僕の顔に目を向けてきた。


「そっか。申し込んだのか」

「うん。とりあえず見学だけね」


 僕はリワーク施設に通うことに決めた。自力での復職は難しいと思ったのだ。これからも兄を飼うために。まずはほんの一歩から。それが、ここ最近考えていたことの答えだった。


「他の人と話すの、久しぶりだったんじゃないか」

「そうだね。でも、職員さんいい人そうだったよ。明後日行ってみるね」

「行動に移せたのはいいことだ。兄ちゃん、応援してるからな」


 映画はエンドロールになっていた。兄は飛ばさずきちんと観る派だ。終わると兄は大きなあくびをした。


「うーん、最後のオチがいまいちだった。途中まではよかったんだけどな」

「そうなんだ」


 昼になって兄とスーパーに出掛けた。お弁当と一緒に野菜と肉、それに鍋の素を買った。今夜は自炊だ。

 夕方になって僕は調理を始めた。包丁を握るのは、兄を殺して以来だ。ざく、ざく、と白菜やネギを切り、鍋に放り込んでいった。


「おっ、いい匂いするなぁ」

「スープだけでも飲む?」


 僕は小皿にスープを入れて、レンゲで兄に飲ませた。


「うん、いい味だ」

「僕、これからはきちんと野菜もとるよ。食生活もきちんとしたい」


 一人の鍋にしては作りすぎた。僕はお腹をパンパンにした。どうも残せないのが性分だ。

 それから、しばらく袖を通していなかったスーツを確認した。リワークは出勤練習の場だ。特に指定されていたわけではなかったが、スーツで行こうと決めていた。

 その日も兄に食事を与え、抱き抱えて眠った。この腕の中に収まる幸せを離さないために。僕は努力すると決めた。

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