善悪と彼岸
私はずっと黙ったままでいた。お面男も話しかけなかった。ふと振り向くとデジタルタイマーの残り時間が20分を切っていた。もう何か手を打たないといけない。
私はモルヒネの効き目が切れ始め、痛みだした全身に気合いを込めて、口を開いた。
「元プロレスラーは私の爆死に付き合うのか?」
「お、久しぶりに声が聞けてなによりです。いや、彼は爆発直前に逃げます。あの扉の外に行けばいいだけなんです。破壊されるのはこの地下室の内部のみ。シェルターですから」
「そうか。彼は逃げられるのか。あと、あんた」
「私、ですか?」
「もうボイスチェンジャーで加工された声はやめてくれないか。聞いていて不愉快だ。あんたは別に声を隠す必要ないだろう。
もう娘が誘拐されて殺され、眼球と乳歯を抜かれたと言った。それで特定されるんじゃないか。里中達也、里中真理恵の父親だ」
「今は松山敏夫といいます。ある人から戸籍を買って別人になりましたので。でもそれも必要なかったですね。里中達也のままでも良かったんですよ。
荒木佳奈子を殺すために改名したのに、殺せなかったですしね」
「殺せなかったってことは荒木と接触したのか?」
「さすが元警視様。荒木が出所してることは知ってるのですね」
「そりゃそうだ。なぜ殺せなかった? ワタシを殺そうとしてるのに」
「荒木は40年間収監されてました。なのにあなたは野に放たれたままだ。こんな理不尽なことないでしょう。あなたのせいで娘は殺されたのに。
わかりました、いいでしょう。ボイスチェンジャーを切ります」
里中はお面の中に手を入れた。すると、
「これでよろしいですか」
と、里中の生声が聞こえた。思ったよりも重い、老成した声だ。でも加工された声よりはマシだ。
「里中、あんたに聞きたい。あんたにとってのベストはなんだ? 俺が爆死することか? もう片方の足首を切り落として助かることか?」
「ベストとは思いませんが、私が見たいのは爆死ですね。あなたの体が爆発で千々に吹き飛び、顔も胴体も下腹部もすべて原型をとどめないほど吹き飛び、壁に臓物がべちゃっと飛んで、それがずるずると伝って落ちてくるのが見たいですね。
それが心臓だとしたら、最高です。まだしばらく動いていた心臓が床に落ちて、その鼓動を静かに止める。
もしくはあなたの脳が頭から飛び散り、あのカメラにグチャッと飛んで、あなたの脳漿で一部隠れたカメラ越しの地下室の様子が見たいですね」
「狂ってるって自分で思わないのか、里中達也」
「狂ってますよ、娘が殺されたとわかった日からずっと。この狂気を抱えながら今日まで生きて来たんですよ。
狂気って重さがないんです。持ち運びが自由で、どこにでも持っていけます。混んでるコストコでも、夢と魔法の国にも、夜中のドンキホーテにも。
狂気はそれを発露しなければ、誰にもわかりません。言動に現れると露見してしまう場合があるので、それは気をつけてましたが。40年、この狂気を抱えてひっそりと一人で生きてきました。復讐心だけを糧に」
「一人って、奥さんとは離婚したのか?」
「ええ。いろいろありましたから」
「まあ俺も離婚はしてないが、別居中だからな。
じゃあもう、狂気が発露する言動に気をつける必要がないんだな」
「この地下のシェルターに等々力次朗さんと孫の陽菜さんを閉じ込めてるんですよ。もう気をつける必要はないでしょう。だが誤算はありました」
「なんだ?」
「あなたが可愛いお孫さんの足を切り落とすとは思わなかったのです。かわいそうなことをしました」
「陽菜を誘拐してここに連れて来ておいて、善人ぶるのはやめろ」
「善人? 善。かわいそうと思う心は善なのでしょうか? 悪い心でかわいそうだと思うことだってあるでしょう。善悪はそんなに表層的に分けられるモノではないと思いますが」
「なんでお前と善悪の哲学的な話をしなきゃならないんだよ」
「等々力さんはニーチェの『善悪の彼岸』は読まれました?」
「学生の頃に読んだよ。読んでるとインテリに思われたからな」
「同世代あるあるですね。私も読みましたよ。それで、その中の一文でも思い出せますか?」
「まったく、一語一句思い出せない」
「それもあるあるですね。持ってるだけで、カッコ良かった本があったんですね、昔は」
「そうだな」
そう言いながら、なんでこいつとこんなあるある話をしてなきゃいけないのか、猛烈な違和感が湧いた。なんだ、俺はどうしたんだ?
その時だ。ずっと出血性ショック死したと思っていた陽菜の意識が突然戻って、顔を上げて大きな目を見開いて私を見た。
その光景はホラーだった。
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