第25話
それからまた数日が経ったある日、久しぶりに千里に会った。千里もしばらくは学校を休んでいたらしく、お母さんが優しすぎて怖かったよ、そう言って彼女はおどけて笑った。
「…あのね。」
しばらくの沈黙の後、彼女はゆっくりと口を開く。
「奈月が居なくなって、もう生きていけないと思った。奈月がいない生活なんて考えられいし、私だけ幸せになることなんてできない。」
そこまでいって千里は大きく息を吐く。涙が溢れるのを必死に堪えているように見えた。
「・・・でもね、不意に前に奈月に言われた言葉を思い出したの。」
去年の夏休み、千里が奈月と一緒に行った花火大会で、千里の中学校の時の同級生に再開したらしい。同じバスケ部だった彼女たちに、千里はあまりよく思われていなくて。
「何も言い返せなくて、言い返そうとしてくれた奈月の事も止めてしまって。」
怖かったの、と千里は呟く。奈月にどう思われたのかが怖くて、立ち上がって帰ろうとした千里を、奈月は呼び止めた。
『私は千里が好きだよ。』
『過去の事なんてどうでもいいよ。私は千里が好きだから。全部含めて千里だから。』
奈月はそう言って笑ったのだという。
『誰がなんて言おうと、私は自分の目で見たものを信じるよ。千里の笑った顔が好き。すっごい元気貰えるんだ。』
『だから、たくさん笑って。』
ああ、奈月らしい。なんてまた思って涙がこぼれそうになった。その時の事を思い出したのか、千里は涙をためながら、でも小さく笑う。俺の方へ向き直った彼女は、まっすぐ俺の目を射抜いた。
「・・・私ね、笑うって決めたんだ。笑って、楽しんで、毎日生きるの。・・・そうしないとまた怒られちゃうかなあって。」
そう言って千里は悪戯っ子のように笑った。耐えきれず千里の目から零れ落ちた一粒の涙は、ゆっくりと彼女の頬を伝う。けれど彼女は、それ以上もう涙をこぼさなかった。
千里と別れた後、俺には行きたい場所があった。花屋さんで花を買って、電車に揺られること数時間。たどり着いたのは、人通りの多い駅のホームだった。隅っこには不自然にぽっかりと空白が空いていて、そこには色とりどりの花達が置かれていた。俺もそこに、跪いて花を置く。
鈴香さん基本的に男前だけどビビりだし、気が強いように見えて繊細だし。・・ああ。怖かったんだろうなあ。彼女の笑顔を思い出して胸が苦しくなる。
鈴香さんが亡くなった後、彼女が働いていた会社は経営側の判断で幕を下ろした。鈴香さんに助けられた同僚は、少しでも自分や鈴香さんと同じようなことを経験する人が減るようにと、自らの力で新たな相談窓口を開設したそうだ。
『ありきたりな言葉かもしれませんが、彼女の死を無駄にしたくないんです。』
インタビューでそう語った彼女の目は潤んでいて、けれど、強い光を灯していた。彼女には2人の子供がおり、鈴香さんは子供達ともよく遊んでくれたらしい。
『私は、強い人になります。彼女のように。』
そう語る彼女の瞳は、どこまでも澄んでいた。
一緒に働いていた先輩たちはどうなったのか分からない。鈴香さんの死から何かを感じたのかもしれないし、何も感じず、また同じようなことを繰り返しているのかもしれない。それは分からない、分からないけれど。鈴香さんの死から始まった何かがある、救われる人がいる。優しくて強い彼女は、それをなによりも喜ぶんじゃないかな、なんて。
鈴香さんは亡くなった日もいつもと変わらない様子だったらしい。いつものように辛そうな様子など一切見せずに、明るく笑って。その笑顔の下にどれだけの不安を隠していたのだろう。
『要くんに出会えてよかった。』
そう言った鈴香さんの優しい笑顔を思い出す。
「・・・俺も、鈴香さんに出会えて良かったよ。ありがとう。」
この声は、彼女に届いているだろうか。
駅の近くの人通りの少ない路地裏に、たくさんの花が供えられていた。少し薄暗いそこには先客がいた。まだ30代に見えるその男の人は、俺の姿に気づくと静かに頭を下げた。俺も頭を下げて、花を添える。拓海さんが亡くなった後、今までの校長先生が辞職し、新たな先生が就任した。
『私の願いはたった1つです。ここにいる皆さんに、ずっと笑っていてほしい。ただそれだけです。そのために自分が何が出来るかを考えていきたい』
新たな校長は、教員、保護者、生徒たちの前でそう語ったという。亡くなった生徒、拓海さんの事について触れた時は、涙ながらに話をしていたそうだ。
「・・・彼は、勉強が得意じゃなかったんですよ。」
その男性はゆっくりと口を開く。拓海さんの学生時代を知っているのだろうか。
「それどころか生活態度も悪くて。毎日注意ばっかりしてました。」
「・・・それは何となく想像つきます。」
俺の言葉に彼はははっ、と笑う。拓海さん、時々ヤンキー感出てたもんなあ。彼はゆっくりと息を吐いて、でも、と言葉を繋げる。
「昔から、誰よりもまっすぐで優しい子でした。」
「・・・それも、想像つきます。」
俺の言葉に今度は悲しそうに微笑む。不器用な拓海さんの優しさは、今まで多くの人を救ってきたのだろう。
しばらくの沈黙の後、それでは、と俺に頭を下げて立ち去ろうとした男の人の背中を呼び止めてしまった。言わなければいけない事がある気がした。
「・・・拓海さんは。」
「はい。」
「拓海さんは、数学の、先生でした。」
「…はい。」
「生徒のことが大好きな、数学の先生でした。」
彼は少し不思議そうな顔をした後、なにかを懐かしむように笑った。
「はい。」
そう答えた後、もう一度彼は俺に頭を下げた。俺もそれに答えてから、手を合わせて目を瞑った。
『生きろよ』
そう言って微笑んだ拓海さんを、俺は一生忘れない。
拓海さんのクラスのいじめの加害者たちは「そんなつもりは無かったと」繰り返し語ったという。そう言って泣いて、亡くなった子の両親の下へ謝りに通っているらしい。まだ一度もお線香をあげさせてもらえた事はない。玄関にすらあげてもらえたこともない。でもそれでも、通い続けているらしい。許してもらえないのなんて当たり前だ、それだけの事を自分たちはしたんだ、と。彼らは決めたのだ。自分たちの過ちを認めて、でもそれでも進んでいくと、決めたのだ。
拓海さんに知らせてあげたいな、そう思ったけど、きっと彼の事だ。すぐ傍で見守ってあげてるんだろうな。なんて。
扉の前に立ち、大きく深呼吸をする。
最後に苦しくなるくらい息を吐いて、ドアノブに手をかけた。
久しぶりに踏み入れた奈月の部屋は、拍子抜けするくらい記憶のままだった。置かれた雑貨、畳まれた布団、机の上の参考書。ただいま、と奈月がまだ普通に部屋に入ってくるような気がした。ただひとつ違うのは、お線香の香りが漂っている事だ。
やっと、お線香をあげに来ることが出来た。遅くなってごめん、そう心の中で語りかければ、彼女が口をとがらせている気がした。鈴香さんと拓海さんのおかげで、きっとここに来ることが出来た。
目を閉じて、彼女の事を思う。息を吐いて、そして部屋の中を進んだ。
全然変わらないなあ、と部屋を眺めて、不意に本棚に目が止まった。
そこには本以外にも彼女のお気に入りの雑貨達が置かれていた。変なガチャガチャとか、あいつ、好きだったよなあ。なんて思いながら思わず笑みがこぼれてしまう。
その中で俺の視界に映ったのはら見覚えのある青い瓶の香水だった。一瞬息が止まる。クリスマスに一緒に買い物に行った時、雑貨屋さんに寄った。そこで俺が好きだと言った香水だ。手に取ってみれば中身は減っていて、いつからつけてたんだろう、ていうかいつ買ったのかな、全然気づかなかったな、俺。飾ってある数枚の写真の中では青に包まれてみんなが笑っている。その横にクリップで留められているのはクレープ屋さんのレシートだ。勉強を教えてもらったかわりに一緒に買いに行って食べた。こんなの、飾っとくもんじゃないだろ。笑ったつもりだったのに笑えてなかった。ボールペンで変な絵を書いた植物園のチケットは花柄の画鋲でコルクボードに飾られていた。自分で泣いてることすら気づけないくらい、さらさらとした涙が頬を伝った。苦しさでも悲しさでもない、どうにも形容できない気持ちが胸の奥から込み上げてくる。
そこには、俺がいた。どうしようもないくらい俺がいた。俺の傍にはずっと奈月がいて、そしてきっと。奈月の傍にも、俺がいた。
本棚には奈月が小さい頃から大切にしている色の図鑑もあった。自然と惹き付けられて、手に取ってパラパラとページをめくる。ああ、全部同じ色じゃん、なんて嘘だ。こんなに違うのに。あの時の俺は馬鹿だな、なんて思いながら読み進めていれば、ポトン、と隙間から何かが落ちた。
透明のビニール袋に入っていたのは、青く透けた飴細工のようなしおりだった。あまりにも綺麗で、思わず息を飲んだ。派手さはないのに、模様が目立つ訳でもないのに、ただの青色は、驚くほど綺麗だった。
手に取って、裏を返す。しおりと一緒に入っていたのはサンタさんの絵柄がついた小さなメッセージカードだった。なんでこの時期にサンタさんなんか、その疑問と共に奈月とクリスマスにした約束が浮かんで、息をゆっくりと吐いた。このまま見なかった事にして戻してしまおうか、そうも思ったけど、結局俺は袋を開いた。
入っているのはしおりとメッセージカードだけで、そこにはたった1行しかなかった。何度も見た奈月の字。少し丸くて、大きくて読みやすい奈月の字。
【奈月より、
私の海へ。】
『私の最上級の愛の告白かな。』
恥ずかしそうに笑った彼女の声がこだまする。
涙が頬を伝った。だめだ、俺はもう泣いてばっかりだ。奈月の部屋でなんか泣きたくないのに。早えよ、早すぎだよばか。昔から気の早いところあったよな。せっかちだし、これがしたい!と思ったらすぐにしないと気が済まないし。でもそれにしても早すぎだ。まだ夏も来てないんだよ、夏どころか梅雨にもなってない。またみんなで海に来ようって、花火をしながら約束したじゃないか。また来年もって、なんで、なんで。
サンタさんが、吹き出しでメリークリスマスと笑っている。『来年のクリスマスプレゼント、楽しみにしててね。』そう言って彼女は笑った、指切りをした。約束したけどさ、これで約束守ったつもりかもしれないけどさ、違うよ違うに決まってんだろ。そこに奈月がいないのに、俺はどうしたら。
涙でぐちゃぐちゃな顔のまま立ち上がった。しおりを握りしめて部屋を飛び出す。向かう先は決まっていた。彼女の大好きな、青が見たかった。
奈月がいなくなってから近寄ることはおろか、画面越しに見ることすら出来なかった海に、行きたいと思った。雨野さんの喫茶店を見つけた時と同じ衝動を感じて、電車に飛び乗った。
駅のホームに降りて、大きく深呼吸をする。まだ海は見えていないのに、もう海の気配がした。駅から少し歩いて、景色が開けて青が目に飛び込んできた瞬間、なんだかまた泣きそうになってしまった。そのまま動けなくなってしまって、もう一度大きく深呼吸をする。ゆっくりと、砂浜に足を踏み入れた。波が揺れる音、水面に反射する日差し、少し肌にまとわりつくような潮風を胸いっぱい吸い込んだ。ああ、ここだ。やっぱりここだ。
ここが、奈月が大好きな場所で、俺が大好きな場所なんだ。
1人砂浜に腰掛けて、ゆらゆらと広がる海を眺める。手に握りしめたままだったしおりを太陽にかざす。光が透けて、青が重なって、うん、すごく綺麗だ。ポケットからとんぼ玉のキーホルダーも取り出して、それも、太陽にかざした。同じように、とても綺麗だった。
さっきまでの悲しみややり切れなさは胸の奥深くへと落ちていて、不思議と心は穏やかだった。
一粒、二粒、と俺の目からは涙がこぼれ落ち、ゆっくりと砂の色を変えていく。
『究極の愛の告白』
そう言って笑った、奈月の顔を思い出す。
『私の好きだったものを要もずっと好きでいてほしい。』
なんて、ね。あまりに重すぎるか、そう隠すように笑った奈月を思い出す。
涙がこれ以上零れないように、上を向いた。空もあまりにも真っ青で、なんだか笑ってしまいそうになった。これは図鑑だと何色なんだろうな、きっと名前があるんだろうな。しおりを握り締めて、そうだ、教科書に挟んで使おう。今度ガチャガチャでもやりにいこうかな、駅前になんかガチャガチャ増えてたしな。あとそうだ、あんこも食べてみよう、海の青を見つめながら、しょうがないなあ、と笑って泣いた。
なあ奈月。
このしおりさ、まるで。
「…海を閉じ込めたみたいだ。」
耳元で、奈月の笑い声が聞こえた気がした。
春の海は美しくて、残酷だ。
でもそれでも。やっぱりここが、俺と奈月を繋いでくれる場所なんだろう。
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