第24話
それからまた時が進んで、徐々に奈月の記憶も崩れ始めた。なんとか奈月をこの世界に繋ぎ止めようと、彼女が矛盾を追求するのを阻んだ。何度も曖昧な言葉を重ねて、嘘を重ねてぎりぎりでこの世界を繋いだ。少しでも何かを追求すれば、簡単に全てが崩れてしまう事は分かっていて。それでも必死に嘘を重ねた。奈月に本当の事を気付かせたくなかった。
それでも、やはり。過去を変えることなんて出来ないんだ。
奈月は、全てに気付いてしまった。
きっと彼女は海にいると思った。俺も向かおうとして、でも、足を止める。雨野さんの言葉を思い出す。未来は変えられない。本当だったら俺は絶対に海にいっちゃいけない。分かってる、分かってる。でも、でも。
ポケットから振動を感じて、スマホを開いた。聞こえてきたのは大好きな人の声で、それだけで胸が苦しくなる。
俺は、1人で真っ青な空を見上げていた。
海には、行かなかった。奈月が選んだ事で、奈月が決めた道だ。俺の贖罪で、奈月の覚悟だ。行ってはダメだと思った。何を言ってるんだ彼女を抱きしめに行ってやれと、それが正解だと何度も心の中で叫んだけど、でも、でも、でも。行ってはダメだ。ダメなんだ。悲しくて苦しくて虚しくて世界の全部が憎くて悔しくて、自分の太ももを叩きながら歯を食いしばった。そんな俺とは対照的に、奈月の声はとても穏やかだった。
俺の謝罪を遮って、奈月は思い出を楽しそうに語る。千里の話、みんなで海に行った話、クリスマスの話。すべてを話し終えた彼女は、言うのだ。
「全部全部、要のおかげだよ。」
電話越しでも彼女が笑っているのが分かった。堪えきれずに涙が溢れ出す。何言ってんだよ。俺のおかげなんかじゃないだろ。俺は、奈月のことを守れなかった。最後まで一緒にいることが出来なかった。何も、何も出来なかったのに。
「ありがとう。」
「大切な人に出会えて、私は幸せだった。」
そんな言葉、言わないでくれ。
「・・・奈月、まって、俺やっぱ、」
「駄目だよ要。」
「でも!!」
「絶対に。来ないで。お願い。」
苦しかった。彼女を抱きしめることはおろかそばに行くことすら出来ない。何も出来ない変わりに涙だけがポツポツと地面に吸い込まれていく。何もかもが切なくて切なくて堪らなかった。
涙と、吐息と、後悔と、愛しさと。
「・・・奈月。」
震える声で彼女の名前を呼んで、
そして、一言、ずっとずっと、伝えたかった言葉を紡ぐ。
「・・・ずっと好きだよ、これからも。」
人間は欲張りだ。
もう一度会えるならそれだけで十分、なんて。ただ自分に言い聞かせてただけだった。過去は変えられない、そんなの当たり前だと理解しているはずなのに。どうしても駄目だった。俺はやっぱり、奈月と一緒にいたい。こんなにも大切な人と、どうして離れる事ができるんだろう。
最後に、奈月は初めてわがままを言った。初めて、彼女の心の奥深くが見えた気がした。
『私の好きだったものを、要もずっと好きでいてほしい。』
海も、青も、ちょっと変な趣味の雑貨も、あんこも、全部全部好きだ、奈月が好きなものは全部好きだ。そんなのは、ずっと前からだ、馬鹿。
溢れた涙は止まらない。すすり泣きはやがて嗚咽の混じる号泣に変わる。電話越しの波音が徐々に大きく聞こえて、俺の嗚咽をかき消した。
世界が揺らいでいくのが分かった。奈月の涙と俺の涙が混ざりあって、世界は徐々に色を変えていく。目の前に広がって見えたのは、青い青い海の色だった。
「・・・ありがとうございます。」
落ち着いた俺に、雨野さんはコーヒーを淹れてくれた。少しずつ啜りながら、ポツポツと言葉がこぼれる。
「・・・あいつ、薬が本当に苦手なんですよ。」
苦い物全般が駄目だった。熱が出ても咳が出ても、限界まで薬を飲もうとしないから呆れたこともあったっけなあ。
「子供みたいに嫌って言って飲もうとしなくて。」
「・・・。」
「見つかった日、たくさん薬を飲んでたって。眠くなる薬。市販のだけど。あいつ薬苦手なくせに、あんなに苦手なくせに、」
「要、もういいよ。」
雨野さんが、もういいよ、と首を振った。こんなの飲みたくない、と子供の様に駄々をこねていた奈月を思い出す。粒薬だって飲むのに何分もかけて、一生懸命飲み込んでいた。苦しくて苦しくて、俯いてしまった俺の背中に手を置いて、無言でゆっくりとさすってくれる。辛かったな、ポツリと雨野さんの口からこぼれて、それと一緒に俺の目からはまた涙がこぼれた。
しばらく無言のままで時間が過ぎていく中、机の端にある1枚の写真に目が止まった。写真はかなり色褪せていて、そこには仏頂面の雨野さん、その隣には綺麗な女の人、そしてまだ5歳くらいだろうか、小さい男の子が写っていた。俺が写真を見ているの事に気付いたのだろう。雨野さんがゆっくりと語り始める。
「俺の妻と息子だ。・・・もう死んじまったけどな。」
そう言って、彼は悲しそうに目を伏せた。
若い頃の雨野さんは一般企業でサラリーマンとして働いていた。仕事熱心で頭の回転も早かった雨野さんは順調に出世し、仕事がなによりも大切だっだそうだ。毎日朝は早く、帰ってくるのも妻と息子が眠った後。休みの日も出勤して仕事をこなし、家族で食事する機会もほとんどなくて。それでも奥さんは何一つ不満も言わず、わがままを言う息子さんをなだめていたそうだ。
そんなある日、仕事終わりの雨野さんに一本の電話が入って。知らない番号からの電話、不思議に思って出れば。
「・・・雷にでも打たれたのかと思ったよ。」
そのくらいの衝撃だった、そう言って雨野さんは無理やり笑う。買い物帰りの奥さんが運転する車が、トラックと正面衝突した。原因は向こうの信号無視。奥さんも息子さんも、即死だったそうだ。
「死ぬほど後悔した。・・・いや、死んでしまおうと思った。」
彼は失ってから始めて気がついたのだという。一番大切なものは何なのか。どれだけ妻と息子に寂しい思いをさせていたのか。側に人がいてくれるのは当たり前ではなかったのだ。伝えたくても、もう感謝の言葉も謝罪も何一つ聞いてもらえないのだ。俺は旦那としても父としても最低だった、そう言って雨野さんは自分のことを嗤う。その後家族で暮らしていた家を売り、会社も辞め、なにかをやる事もなくただ日々を過ごしていた雨野さん。
そんな彼は、ある日。俺と同じように急に外に出る気になったのだと言う。久しぶりの外出に眩暈を覚え、なんとなく立ち寄った古ぼけた喫茶店の中には、1人の老人がいた。
「俺もお前と同じ経験をしたんだよ。」
雨野さんは俺の方を見て優しく笑う。
「俺も、奇跡を見たんだ。」
大切な人に、もう一度会うことを望んだ。
「この店はその時の老人から譲り受けたんだ。俺は彼の事は何も知らない。名前すら分からない。」
ああ、譲り受けたはちょっと語弊があるかも知んねえな。そう言って雨野さんは少し皮肉っぽく笑う。その言い方を不思議に思って彼を見ていれば、雨野さんはおもむろに立ち上がって入口へと向かった。そのままドアを開けようとするが、ドアノブは回らなかった。あれ、鍵なんかかけたっけ?とぼんやり眺めていれば、彼は今度は近くにあった食器を持ち上げて、それを窓ガラスへと投げつけた。驚いて大声を出してしまったと思ったのに、俺の口は大きく開いただけで声は出ていなかった。それ以上の衝撃が重なったからだ。
窓ガラスは割れなかった。割れないどころからゴムのように食器を跳ね返した。カラン、と食器が地面に転がる音だけが響く。だよなあ、と笑った雨野さんは唖然としている俺を引っ張って、ドアの前に立たせる。促されるままにドアに手を駆ければ、ドアノブは拍子抜けするほど簡単に回った。外にだって出られる。でも、その開いたドアに雨野さんが近づこうとすれば、勢いよくドアが音を立てて閉まるのだ。なんだ、なんだこれ。
もう何十回、下手したら何百回と試したのだろう。雨野さんは笑って首を振って、カウンターの奥へと戻っていった。俺にも椅子に座るように促す。
「・・・お前は俺よりずっと大人だよ。」
少しコーヒーを啜ってから、そう言って雨野さんは笑う。
「今まで散々蔑ろにしてきたくせに、我慢できなかった。事故にあう日、外に出るなとあいつらを家にいさせようとしたんだ。ルールを破っちまった。その瞬間、景色が歪んだ。」
気付いたらこの喫茶店に戻ってきていて、そこにはいたはずの老人もいなくなっていたそうだ。外に出ようとしたら出れなくて、何を試しても無駄で、ずっと、ずっとここに。
「こんな日々を繰り返してる。気づいたら違う場所にいて、誰かが訪ねてくる。」
思わず、息をのんだ。
「・・・雨野さん、俺。」
「馬鹿な事言おうとすんじゃねえぞ、馬鹿。」
「雨野さん。」
「『いつか。いつかお前と同じような子が現れるだろう。過去は変えられないと分かっていても、大切な人に会いたい、そう望む人間が。』」
急に声を作って、雨野さんは上を見上げた。
「『そいつの願いを叶えてやれるのは、きっとお前だけだよ。』」
老人が言ったという言葉を繰り返した彼は、仏頂面を崩して微笑む。
「その言葉、嫌いじゃなかったんだ。だからまあ、悪くはねえよ。・・・ただちょっと、お前にはまだ若すぎるな、ここに閉じこもるには。」
要、と雨野さんは俺の名前を呼ぶ。
「・・・頑張ったな。」
その言葉に再び泣きそうになるのを堪えて、彼の名前を呼んだ。
「今のは・・・夢だったんですかね。」
俺の言葉に、そうかもしれないな、と雨野さんは頷く。頷きながら、でも、と言う。
「俺は見てたよ、お前たちの事。」
胸が熱くなって、涙が溢れないように上を向いた。
その時、チャリ、とポケットから聞きなれない音がしてそこを探れば。
「っ・・・!」
駄目だった、また涙が溢れた。喋る事も何もできなくなって、嗚咽が漏れる。
そこにあったのは奈月にあげたはずのとんぼ玉のキーホルダーだった。ここにあるはずのない、海を閉じ込めた青。指で何度もその形をなぞる。夢でもいいと思った。この喫茶店に来たのも、雨野さんに会ったのも、奈月にもう一度会えたのも。全て夢だったのだと。目を覚ませば俺はまだ部屋の中で寝ているんじゃないか。…それでも、いい。夢でも奈月に会えたならそれだけで十分なんだと。でもあるはずのないものが、ここにあるのだ。2人で見たあの儚く青い海は、嘘では無かった。
嗚咽を漏らす俺の肩を雨野さんがさすってくれる。
・・・奈月。ごめんな。怖かっただろ、寒かっただろう。傍にいれなくてごめん。涙を拭えなくてごめん。ごめん、ごめん、でも。
もう一度俺に会ってくれて、ありがとう。
「・・・久しぶり。」
それから数か月後。徐々に外出が出来るようになっていた俺は、横山から電話を受けて学校の音楽室へと足を運んでいた。
「大分やつれたね。・・・ちゃんと食べてる?」
「・・・うん。心配かけて悪かったな。」
俺の事を心配してくれる横山だが、彼の顔も少しやつれているように見えた。
「佐川は?」
「・・・まだ元気ではないかな。でも前よりは大分落ち着いたよ。」
「・・・そっか。」
しばらく何でもない話をした後、おもむろに立ち上がった横山は隅っこにあったグランドピアノへと腰かける。
「・・・俺さ、ピアノ弾いてるって言ったじゃん。」
横山の言葉に頷く。あれは確か去年の秋の初め頃。なんか言うの恥ずかしくて今更だけど、と横山は俺と神谷にピアノが弾ける事を話した。素直にすごいと思ったし、聞きたいと思った。恥ずかしがることなんて何もないのにな、そうも思って。
「ピアノやってる事が何となく恥ずかしくてさ。なかなか言えなくて。」
「・・・うん。」
「皆に話すきっかけをくれたのは、奈月ちゃんだった。」
突然出てきた奈月の名前に、心臓が大きく飛び跳ねた。横山はそれ以上は詳しく話さなかった。じっとピアノの鍵盤を見つめていた。
「・・・俺、約束したんだ。」
そしてまた、ゆっくりと話し始める。
「またピアノ聞かせる、って。」
横山の声は震えていて、でもそれでも、彼は顔を上げて微笑んだ。
「『多分、私選んでくれた曲全部好きだよ』って、笑ってたんだ。」
ああ、奈月らしいなあ。
「・・・要、聞いてくれる?奈月ちゃんに聞かせたくて、選んだ曲。」
「・・・うん。」
俺が頷けば横山は微笑んで、鍵盤の上に手を置いた。
それから何分くらい経過したのだろう。そんなことも分からないほど、俺は横山の演奏に聞き惚れていた。音楽に疎い俺が知っている曲は一曲も無かったのにも関わらず、全ての曲が美しくて、するすると俺の中に入り込んでくる。
「・・・なんで、もっと早く練習しとかなかったんだろう。」
演奏し終わった後、横山はそう言って悲しそうに微笑んで。
「奈月ちゃんに、聞いてほしかったなあ。」
そう言って、静かに泣いた。
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