第21話
目を開けば、私の目の前には海が広がっていた。さっきまで葛木荘にいたはずなのに、そんな事は少しも不思議に思わない。だって、私は今ここで息をしている。その時点でこの世界は不思議な事だらけなのだ。
砂浜を踏みしめて、辺りを見回す。・・・私が幼い頃から憧れていた海、皆で夏に遊びに来た、海。要とクリスマスに来た、そして私が最後の場所に選んだ、海。
まだ寒い時期のはずなのに、何故かこんなにも暖かい。空には雲ひとつなくて、大好きな青に挟まれている。
ポケットからスマホを取りだして、電話をかけた。3回コール音がなって、繋がる。
「要。」
私がその名前を呼べば、電話の向こうで息を飲む音が聞こえた。顔は見えないはずなのに、不思議と彼の泣きそうな顔が見えた。
「・・・要。」
もう一度、彼の名前を呼ぶ。
幼馴染の要とは小さい頃からずっと一緒だった。私の家の事を一番知っていたのも要で、私に何かあればいつだって彼が駆けつけてくれた。
「・・・奈月、俺、」
「私、ここが大好きなの。もともと好きだけど、でも皆で海に来たのがすっごい楽しくて。」
わざと、要の言葉を遮った。
「千里はいつも突然だけど、千里と一緒にやった事は全部楽しかった。由香ちゃんも神谷くんも横山くんも、皆いい人で。素敵な友達に恵まれたなって。」
私の口から溢れる言葉に、要は静かに耳を傾ける。
「クリスマス、本当に楽しかった。海もすっごい綺麗だったし、プレゼントも、嬉しかった。」
ポケットの中でガラス玉が揺れて音を立てる。海を閉じ込めたガラス玉が、私をいつだって救ってくれた。
「全部全部、要のおかげだよ。」
泣きたくはなかった。けど、堪えきれずに涙声になる。
「ありがとう。」
私は今、うまく笑えているのだろうか。要には顔が見えてないと分かっているのに、どうしてもちゃんと笑いたいと思った。
電話の向こうで嗚咽が聞こえる。泣いてる彼を抱きしめてあげたいけと、それは出来ない。してはいけない。分かっている。これが私が選んだ運命だ。
「・・・奈月。」
「ん?」
「ごめんな。」
絞り出すような声で、要は何度もそう繰り返す。その声は震えていて、今にも消えてしまいそうなくらい儚かった。
__ ああ。私はどれだけの責任を彼に背負わせていたんだろう。彼はどれだけ苦しんで、自分の事を責めたんだろう。優しい優しい彼を、どこまで追い詰めてしまったんだろう。首を振って、ポケットを強く握りしめた。
「・・・私、不幸せなんかじゃなかったよ。」
私の言葉に、要が息を呑むのが分かった。
その言葉は、紛れも無い私の本心だ。家では自由に過ごす事なんて出来なかった。いつも父親の顔色を伺って、ただただ生きる事に必死で。それでも頑張れたのは、皆がいたから。何があったって一緒にいてくれて、いつも笑わせてくれる友人がいた。どんな時だって、隣には要がいてくれた。それだけで、十分幸せじゃないか。これ以上何を望むというのだろう。
『後悔しちゃ駄目よ。』
『お前の人生はお前だけのものだ。』
『人生の価値を決めるのは周りじゃない。・・・奈月、お前自身だ。』
3人の声がふと頭によぎる。その言葉の意味が、今やっと分かった気がする。
「皆は可哀想だって、そう言うかもしれない。」
家庭内暴力。誰にも助けを求められずに自殺。なんて可哀想な高校生。
ニュースではそう報道されていた。きっと多くの人が、私の事を可哀想だと嘆いているのだろう。・・・でも。
「・・・私はそうは思わない。」
電話の向こうに、語りかける。顔は見えないけど、彼は泣いていた。ずっと一緒にいたけど、要が泣いている所は見たことがなかった。最後まで泣き顔は見れないままかあ、なんて。
「大切な人に出会えて、私は幸せだった。」
こらえきれずに涙が溢れてきて、視界がぼやける。
「・・・奈月、まって、俺やっぱ、」
「駄目だよ要。」
「でも!!」
「絶対に。来ないで。お願い。」
来ちゃダメだ、ダメなんだ絶対。なんでか分からないけどそう思った。私はもう彼に会ってはいけない。そんな気がしていた。
少しの沈黙の後、要は震える声で私の名前を呼んた。そして、一言、呟くようにこぼす。涙と、吐息と、後悔と、愛しさと。
「・・・ずっと好きだよ、これからも。」
__ ああ、私はやっぱり幸せ者だ。
その一言だけで、私の全てが報われた気がした。返事をする代わりに精一杯笑ってみせた。顔の見えない電話口で、要と過した日々を思い出して、幸せだなあと笑ってしまった。
ねえ、要。
最後に情けないわがままを言ってもいいかな。
「私の嫌いだったものを一緒に嫌いになる必要なんてない。でも、私の好きだったものを要もずっと好きでいてほしい。」
なんて、ね。あまりに重すぎるか、とまた笑ってしまった。彼の返事は聞かなかった。聞かなくてもよかった。
少し眉を下げて、しょうがないなあと言う顔で、笑って頷くに決まっているもの。
ここにいない彼の涙を拭いたくて、手を伸ばしてみる。当然手は届かなくて、同時に世界が少しずつ揺らいでいく。消えるんだろうな、そう気づいたけれど大好きな人と一緒なら何も怖く無い。崩れて行く世界の中で、私達は最後までスマホを握りしめていた。
__ 春の海は今まで見たことがないくらい、
美しくて、そして、儚かった。
気づけば、俺は古びた喫茶店の中にいた。
店に入ってきた時の位置に座ったままで、目の前の古ぼけた鳩時計の示す時間は変わっていない。
・・・今のは全部、夢だったのだろうか。そんな事をボーッと考えていれば、目の前に差し出されたのはティッシュ箱で。
「あれ、なんで・・・。」
その時、俺は初めて自分が泣いている事に気がついた。一度気づけば涙は留まることを知らなくて。ついには声を出して泣き出してしまう。そんな俺の背中を、ここの店主である彼_雨野さんは静かにさすっていてくれた。
奈月と俺は、幼馴染だった。
小さい頃からずっと仲が良くて、何をするにも一緒で。小さい時、奈月の家に遊びに行ったこともあったが、とても優しい両親だったのを覚えている。けれど小学生の時、奈月の両親が離婚した。原因は母親の浮気だったらしい。後で奈月は笑って話してくれたけど、無理してるんだろうな、そうすぐに分かった。奈月を引き取ったのは父親で、その日から、彼女の生活は変わった。父親が、暴力を振るうようになったのだ。
日常的ではなかったけれど、躾と言っては奈月を叩いた。テストの点数が悪いと、不注意で何かを壊してしまったりすると、彼女を叩いた。俺がそれを知ったのは俺たちが中学校を卒業する頃だった。
「・・・なんでこんなことするの。」
放課後の学校で、誰もいない廊下の隅で。彼女の手を取った日を思いだす。たまたま見つけてしまった奈月の左手の傷に、俺は何も考えられなくなってしまった。
癖だと彼女は笑ったけど俺は笑えなかった。顔が見れなかった。
「もう大丈夫なの。私がちゃんとしてればお父さんも普通だし。」
「大丈夫じゃないだろそれ。」
「大丈夫なの、ほんとに。ただコレは癖づいちゃっただけだし。」
そう繰り返して、俺とは対照的にしっかりと俺の目を覗き込んで、笑う。いつだって奈月はそうだった。本当に大丈夫なように見せるのだ。無理を隠すのだ。自分がどれだけ辛くても、周りを心配させないようにとにかく笑う。
・・・でも、これだけ一緒にいるんだ。その笑顔が本物か偽物かなんて、すぐに見分けがつく。俺が何も言わないのを怒ってると解釈したのか、ごめん、と俯いて謝る奈月。初めて笑顔を消す。
「なあ。」
「・・・なに?」
「手、貸して。」
「え?」
「いいから。」
不審そうな彼女の手を掴んで、ポケットからハンドクリームを取り出した。
「え、ハンドクリーム持ち歩いてるの?」
「悪いかよ。」
「いや、女子力高いなって。しかもいい匂い、ウケる。」
「ウケんなあほ。」
ケラケラと笑う奈月にデコピンをしてから、彼女の腕にハンドクリームを塗った。優しく優しく、傷跡の上から、彼女の痛みを閉じ込めるように、塗った。
うつむいた奈月の瞳から涙がこぼれたように見えた。鼻を啜って、菜月は口をとがらせる。
「痛くて泣いてるの。要の手がカサカサだから擦れて痛いの。」
「はいはい。」
「いや人の手をカサカサ呼ばわりは酷いね、謝る。」
「反省が早くてよろしい事で。」
俺を見上げて、鼻を赤くした彼女は笑った。俺してあげれる事なんて全然無くて、彼女の苦しみを完璧に理解する事もできなくて、無力で苦しくなる。でも、絶対に側にいよう。彼女が無理して笑わなくて済むように、苦しい時は苦しいと言えるように。そう、心に決めていた。高校生になって、2年生の夏、皆で海に行った。昔から海が大好きな奈月はこれでもかと言うくらいはしゃいでいたけれど、上着を着たまま海に入ることはしなくて、その理由は誰も聞かなかった。それでもビーチパラソルの下で海を眺めていた奈月の表情は穏やかで、皆も暇さえあれば奈月の所へ行き、体調を心配したり冗談を飛ばしあって笑っていた。海で遊んで、バーベキューをして、花火をして。
線香花火を眺めて微笑む奈月の横顔を、俺は絶対に忘れない。
恥ずかしくなって軽口で誤魔化してしまったけど、クリスマスにはデートに誘った。
「クリスマス、千里と2人で出かける事になった。」
「奈月に聞いた。良かったな。」
クリスマスの前日。照れ臭そうに笑って俺にそう告げた神谷。
「お前モテるのにヘタレだからなー。」
「うるさいよ。」
「よく頑張りまちたね~」
俺のからかいに笑って肩を叩く。
「とか言ってる要は?奈月ちゃん誘えたの?」
「・・・一応。」
「なんだよ一応って。」
誘えたは誘えたけど誤魔化しちゃった、そう素直に言えば神谷は吹き出して。
「お前の方がヘタレじゃん。」
「うるせえよ。」
あっという間に形勢逆転。その後しばらくいじられ続けてしまった。
クリスマス当日。プレゼントに選んだのはガラス玉のキーホルダーだった。たまたま見つけて、絶対に奈月に渡したいと思った。『海を閉じ込めたみたい。』なんて言葉を紡ぐ奈月の事が、たまらなく愛しかった。
・・・本当は。渡すときに、告白しようと思っていた。何回も頭の中で言葉を反芻させて。何度も口に出そうとした。けど、言えなかった。怖かったのだ。奈月のそばにいれなくなる事が、怖かった。俺の余計な感情が奈月を1人にしてしまうのではないか、そう思うと怖くてたまらなくて。俺は結局弱虫だ。
奈月は元気だった。よく食べて、よく寝て、よく笑って、でもその左手の傷だけは消えなかった。消えるどころか増えていた。でも俺は何も言えなかった。彼女を救いたくて、でも術が分からなくて、ただ傍にいることしか出来なかった。傍にだけはいたかった。
いつだって奈月は、「大丈夫。」 だと、そう言って、俺の目を真っ直ぐに見て、
「要が側にいてくれるから、私は辛くない。」
そう言って、俺の大好きな笑顔で笑うのだ。
奈月はいつも不安定だった。
いつも儚げで、今にも消えてしまいそうで。いつだって、怖かった。それはきっと彼女も一緒だったのだろう。
それは、まだ寒いけど、よく晴れた日だった。昨日は3月のこの時期には珍しい大雪で、夕方からシンシンと雪が降っていた。その反動かのように今日は朝から清々しい晴れ模様で、窓から差し込む光を浴びていい日になりそうだなあなんて呑気に欠伸をしていた。
まだ春休み中で、だらだらと家の中で過ごしていた。そんな俺の耳にバタバタと階段を駆け上がる音が聞こえてきて、何事かと焦って飛び起きれば同時にに母が青白い顔でドアを開いた。
窓から入り込む明るい光、廊下から流れ込んできた冷たい空気、お昼ご飯であろう焼きそばの匂い、全て鮮明に覚えている。
奈月ちゃんが、海で。
感じたことは鮮明に覚えているのに、母がなんて言ったかは全然覚えていなかった。でも慌てて布団から降りてスマホを掴んで家を出た。
奈月は昨日の夜から家に帰っていなかったらしい。父親はそれに気付かなかった。俺も、全然知らなかった。春休みに入ってから、顔を合わせていなかった。大雪の中、奈月は海へ行った。計画的なのか、衝動的なのかは分からない。分からないけど、彼女は冷たい海の中にいた。そこで見つかった。それは、事実だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます