第9話 「 分かりにくい男 」
台所を片付けていたら恋人のA子が来た。今日は日曜。別にすることもないので、二人でどこかに出かけることにしていた。
「どこ行く?」「うーん、どこでも」
しまった。いつもは自分が場所を考えておくのだが、仕事が忙しかったせいか何も具体的なプランを立てていない。
「そういえば、課長がB君のこと、“影薄い”って言ってたよ」
「課長が?俺のことを?」
「ほら、あんたって仕事でもなんか押し、弱いじゃない」
「え、そうかな」
「自覚なし?」
「ははは」
笑ってすまそうとしたが、彼女の微妙に冷めた視線を受けて諦めた。
「課長はあんたのこと、よく分からない男だよな~、って」
「そんなこと言ってたのかよ」
「うん。でもなんか私も分かる気がするのよね。大体あんたって自分のことちゃんと話さないでしょ」
「え、まあ・・・」
「あんたって、何か夢あんの?」
「夢かあ、あんまり考えたことないなあ」
「・・・。全くもう、だからよ」
彼女の雲行きが段々あやしくなってきたのが分かった。
デートの翌朝、Bは何気に顔を洗って鏡を見た。使い古しの鏡はひどく曇っており、自分の顔がよく映らなかった。手元のタオルで鏡面を拭くが、その曇りは一向に取れない。
「おかしいな。なんだよ」
諦めたBは慣れた手つきで身支度を済まし、家を出た。今日は月曜。これからまた一週間仕事が続くかと思うと、一瞬絶望的にウンザリする。
駅まで歩きながら昨日のA子の言葉が思い出される。
「私、たまにあんたって人が分からなくなることがあるのよね」
それでもBはあまり気にしなかった。大体自分を主張して何か得したことなんて生まれてこのかた無い。現実はむしろ逆。本音を出したらかえって挙げ足を取られることのほうが多いのだ。噂の主の課長なんて、まさにその筆頭だ。
「全く、調子のいいことばかり言いやがって」
Bは駅に着き、ホームへの階段を小走りで上がっていった。通路の壁には様々な旅行のポスターやイベントのチラシが貼ってあり、Bはその片隅に備え付けてある一枚の鏡を通り過ぎながら一瞥した。
「あれ?」
違和感があった。そのままやり過ごそうとも思ったが、気になって歩みを止めた。もう一度鏡の前に立った。
鏡には自分が映っていた。いや、正確にいうと自分らしきものがぼんやりとこちらを窺っていた。
「またか」と思い、Bは手で鏡の面を拭いた。しかしいくら拭いてもそこにはぼんやりとした自分の像が立っているだけだった。
不意に、昔かけていた眼鏡の度が合わなくなった時のことを思い出した。急に視力が落ち、そのうちひどい頭痛がするようになったのだ。しかしBはしばらくそれを放っておいた。単に面倒だったから。ところが家でテレビを見てても、大学の講義を聴いててもそれはおさまらず、それでもその頭痛に慣れてくると、今度は集中してものが考えられなくなった。そこまできてようやくBも怖くなった。そこで人に相談したら「視力、あるいは視覚はその人の思考に大きな影響を及ぼす」と教わった。そしてBはその足で眼鏡屋に行き、ようやく眼鏡を新調したのだ。
Bは駅のホームでしばらく呆然としていた。確かに今も視力は良くはないが、頭痛がすることはないし、まして眼鏡が合わないということもない。問題は「鏡に自分が映らない」ということくらいだ。
いや、ひょっとすると、昨日のA子の話が自分でも無意識に気になっているのかもしれない。そういえば子どもの頃から変に気をつかうところが自分にはあった。
まあ、いいじゃないか。歳も歳だ。細かいことを気にしても仕方がない。Bはそう自分に言って、ホームに入ってくる電車の方に足をむけた。
小一時間電車に揺られ、ようやく職場に最寄りの駅に着いた。改札口のほうを見るとそこに他でもないA子がいた。A子も電車通いだ。近づいて声をかけようと彼女の肩に触れた。A子は振り向き、そしてその顔はみるみるゆがんでいった。
彼女の、これまでになく開かれた口から出た叫びはホーム一帯に木霊した。A子はもちろんBも、いったい何が起きたのか皆目分からなかった。しかし、ざわめく周りの人々のBを見る眼はおそろしく平板で、それでいて恐れを顕わにし、まるで異生物を目の当たりにしたかのようだった。
「おい、どうしたんだよ。俺だよ、俺」BはたまらずA子に言った。A子はその体を振るわせながらようやく一言言った。
「あんた、誰?」
その瞬間、Bの視界が暗転した。
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