第3話 「 林の隣人 」

 鬱蒼とした林に囲まれた、ある古い集合住宅に越してきた僕たち若夫婦。しかし実のところ妻は人間関係に疲れて退職したばかり。一時はどうなるかと僕は心配したものだが、ご近所との相性がよかったのか、最近では自分の趣味だった帽子製作でプロになるべくなんとか奮闘するまでになっている。

 そんな妻の仲良しは三軒向こうに住む一人暮らしの老女と、裏に祖父母と住んでいる幼稚園児の女の子。この二人は僕が仕事でいない昼間しょっちゅう家に来て、遊んだり、話したり、時には妻の帽子づくりのモデルになっているらしい。ただ、僕が平日休暇で家にいる時には「今日はダンナさんがいるからね」と妻は玄関先で丁寧に断っているようだった。彼女なりに僕に気をつかってくれているのだろう。

 ある日、僕が家にいて一人で趣味のピアノを弾いていると庭の縁側の方で物音がした。見ると老婆が朽ちかけた縁側から家の中に入ろうとしているではないか。「何ですか?」僕は気持ちを抑えながら声をかけた。すると相手も少なからず驚いたように、それでいて控えめに手に持ったビニール袋をかざした。僕が戸を開けて受け取ると、中にはいくつかの切り餅が入っていた。「他所でもらったから。おれはこんなには食べれんで」それだけ言うと老婆はゆっくりベランダを降りて、こちらに背中を向けたまま自宅の方に歩いていった。僕は買い物から戻った妻にそのことを伝えた。それからしばらくして二人は家には来なくなった。妻が何かしかの手段を講じたのだろう。僕は少し「悪いことをしたな」と思った。

 妻が妊娠した。僕は戸惑いながらも正直嬉しかった。自分たちの間にもう一人家族ができるなんて考えてもいなかった。ところがそれからしばらくして妻は少しずつ調子を悪くしていった。仕事にも集中できなくなり、家事のことで僕に不満を言うようになった。最初は体調の変化のせいと思ってお互いにやり過ごしていたが、ある朝とうとう言い争いになった。妻は外にまで聞こえる声で僕を責めた。その頃仕事の忙しさでもイライラが溜まっていた僕は思わず「じゃ、しばらく俺、会社に泊まるよ。そっちの方がよっぽど気が楽だしさ。お前も俺に気使わなくて済むだろ」と一気にまくし立てた。妻の顔が見えた。「しまった」と思ったが時間がなかったのでそのまま家を出た。それでも仕事の間中悔いが残った。

 その夜、家に帰ると置き手紙があった。「今朝はごめんなさい。しばらく実家で頭を冷やしてきます。親に連絡はしないでください。心配かけたくありませんから。私から上手く言っておきます。一週間ほどで帰ります。キョウコ」その見慣れない文面を見ながら、正直胸を撫で下ろす自分がいた。

 妻が家を空けて十日目。彼女からの連絡はなかった。こんなことだったら早めに彼女の実家に電話の一本、入れておけばよかった。いまさら連絡して何と言われるか。

玄関でノックの音がする。妻か?急いで出るとあの女の子が立っていた。「遊びにきた。おばちゃんは?」屈託のない表情。「ああ、今日はちょっといないんだよ」「ダンナさんがいるから遊べないの?」「・・・いや、そうじゃなくてね。病院、そう病院に行ってるんだよ。ほら、赤ちゃんが生まれるから」それを聞くと少女は「分かった」と小走りに歩いていった。その後ろ姿があの老婆と妙に似ていて僕はしばらく玄関に立ってその姿が家の角に隠れるまで見送っていた。そしてドアを閉めて再び家に戻ろうとした時、「どうだった?」あの老婆の声が聞こえてきた。家を囲む木立の向こうで話しているのだろう、姿は見えない。「今日もダメだって」「そうかい。ダンナがいたんじゃねぇ」「何して遊ぶ?かくれんぼ?」「お止しよ。ここの林は昔から人がいなくなるんだ。会いたい人にも会えなくなるよ。うちのじいさんがそうだった」「じゃ、あのおばちゃんも?」「どうだかね、おかしなことを言う子だ」老婆の低い笑い声が風に乗って僕の耳にまとわりつく。「林は入るものを拒まないだけだよ」

 その時、僕の心を見透かすように周りの木々がにわかにざわめいた。              

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