第2話 「 車窓から 」

 夢を見ていた。何か、本のページをめくっている夢だ。何の本なのかは分からない。雑誌かもしれない。ただ、僕はとてもやりきれない思いでそのページを探している。それは夢なのに現実以上の重みがあった。


 少し眠っていたらしい。助手席の窓から何かはためくのが見えて、それで目が覚めた。

 パチンコ屋の旗だった。黄色い生地に派手なキャラクターがプリントされている、どこにでもあるものだ。

 

 僕はパチンコもマージャンもしない。若い頃も、所帯持ちになった今でもそうだ。

 いや、一度だけ兄に連れられて実家近くのパチンコ屋に入ったことがある。あれはまだ兄が元気で、僕はちょうど二十歳で、正月に兄弟そろって実家に里帰りしていた頃のことだ。

 

 実家の自分の部屋で何をするでもなくゴロ寝していると、不意に兄が「パチンコにでも行かないか?」と誘った。断る理由もなかった僕は「いいよ」と絨毯から起き上がった。

 めずらしく兄の運転で、僕は小一時間ほどかかる街のパチンコ屋に向かった。

「今、付き合ってる彼女はどうよ?」兄がハンドルを回しながら、どうでもよさそうな顔で聞いてきた。

「うん、まあ可愛いよ」僕は正直に答えた。「兄ちゃんは?」

「この前ふられた。急に手紙が来て、それで終わり」

 知らなかった。でもそう言う兄の横顔は不思議と晴れやかだった。


 二時間後、結果は散々だった。店はほどほどの入りで僕と兄は隣り同士で座ったが、まず僕が驚いたのはパチンコには三千円ほどの初期経費がかかるということだった。三千円もあればCDが一枚買える。僕にはわずかな数の銀の玉がそれに匹敵するとは到底思えなかった。

 兄にそれを言うと、「ケチなお前らしいな」と声を出して笑った。


「甲斐さん、起きてるんですか?」急に仕事の後輩、立花が運転席から声をかけてきた。

「うん。立花、お前さ。自分の夢ってなんだよ?」

「どうしたんすか、急に」

「別に。なんとなくだよ」

「うーん、そうだなあ。夢かあ」立花の目が一瞬光った気がした。

「なんだよ、もったいぶらずに言えよ」

「あのですね…」

「だからなんだよ」

「…フェラーリっす」

「は?」

「フェラーリっすよ、赤のフェラーリ。フェラーリはやっぱ赤でしょう」

「へー」

「なんですか?おかしいっすか、やっぱり」

「いや、そうじゃなくてさ。ちょっと想定外というか。そういうこともあるかなあって」

「甲斐さんの夢ってなんなんです?」

「え?俺かあ」相手から聞かれて、正直不意を突かれた。

 自分の夢なんてこのところ考えたこともなかった。昔から夢なんてあまり考えるほうではなかったが、それでも夢も希望もない今時の生き方は好きではなかったはずだ。

「まさか、自分はない、はナシですよ~」

「そうだな…まあ、今は家族かな」

 心の片隅でウソをついた。もちろん家族が大事ではない訳ではない。ただ、夢というのとは違う気がする。

「家族ですか~。そうですよね。やっぱ、そうきますか」立花は満足そうに頷いていた。


 兄だったら何て答えたのだろう。考えてみたら無欲な男だった。小さい頃よく食べ物を競いあったりもしたが、それは兄弟のじゃれ合いだったし、自分が就職してからは不意にこづかいをくれたりもした。不思議な兄だった。

 でも僕はどうして夢なんて、急に思いついたのだろう。


 …そうだ。兄の小学校の卒業文集だ。兄は自分の「十年後の夢」という作文にこんな題をつけた。『世界を旅する冒険者』。家族で大いに驚いた。

 その兄は結局ちょうどその「十年後」に交通事故で死んだ。文集は納棺の時に母がそっと遺体の脇に置いた。僕はその時はじめて、兄は本当に向こうの世界に行ってしまうのだと感じた。それでも泣いたのはずっと後のことだ。


 考えてみると今の僕は、おそらく兄からは想像できない弟になっているだろう。結婚して、子どももいて、おまけに嫌いだったネコまで飼って…。

 兄ちゃん、生きてるのはそれだけで夢だよ。自分の思いなんてどれだけあっても、世界はもっと大きなうねりで流れていく。僕は毎日その中で溺れないでいるので精一杯だよ。でもそんな生活も満更じゃない。最近そう思えるようになったよ。兄ちゃん。どうだい、そっちのほうは?


 気がつくと、西の空に日が沈みかけていた。

「明日も晴れっすね」立花がそう言って、ひとつクシャミをした。

「もう秋も終わりだな」僕はまた目を閉じた。

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