超短編シリーズ③ 「父への投稿」

桂英太郎

第1話 「 遠く、静かな声( キリンとカバと、草原と海 ) 」

 僕の耳が少し調子悪いのに気がついたのは、バイトのコンビニでレジに立っているときだった。客の、特に男性客のタバコの注文の声が聞き取れないのだ。

 僕は大学で心理学を勉強する学生だ。一応カウンセラーを目指している。僕の毎日は大学、勉強会、バイトのかけもちで、遊ぶ暇も金もない。もちろん彼女もいない。

早朝、僕はコンビニのバイトに入る。いつも40がらみの自称“起業家”のおじさんと仕事するのだが、この人がやたらといい加減な人で、いつも僕が後のシフトのおばちゃんから大目玉を食らっている。その度おばちゃんに説明しようとするのだが、おじさん当人はさっさと帰っちゃうし、おばちゃんは文句と説明が事の外クドく、僕は心底辟易するのだ。

 大学3年の僕は一応カウンセリングの実習も受講している。とは言っても大学が主催している教育相談室での助手なのだが、先生が多忙で結構お鉢が学生の僕にまで回ってくる。カウンセラー志望だから望むところではあるのだが、仲間うちでは先生の特に苦手なクライアントが僕に回ってきているらしい。「先生が手を焼いてる?」僕は最初自分の実力を考えてビビったものだが、会ってみて気づかされた。それらのクライアントは圧倒的に教育ママタイプの中年女性なのだ。実は僕の先生、相当の女性恐怖症で、実際それで自分がカウンセリングを受けたことがあるという噂まであって、確かに無理してでも急用を作りたい気持ちは分かる。おかげで僕はコンスタントに週1~2回のペースで教育ママの“超”教育論の良き聴き手になっているのだ。

 それにしてもこのところの耳の聞こえづらさは何だろう?日が経つ度に悪くなっている気がする。時々クライアントと対面している途中でもまるでテレビのボリュームをしぼるかのように聞こえなくなる。当初は相手に聞き返していたが、ある時それがきっかけで「もういいです!」とトリガラのような体つきの若い母親にキレられてしまった。それ以来ある程度の割合で聞こえてる振りをしてやり過ごすことにしている。すると不思議なことにクライアントはそっちの方がむしろ喋りやすいらしく、僕の思いとは裏腹に「今日は本当に有難うございました」と深々と頭をさげ、勝手に感謝して帰ってゆく。やれやれ、結局僕が日頃勉強しているカウンセリングの理論って奴は何なんだ?よっぽど役者がカウンセラーやった方がクライアントにとって役に立つんじゃないか?日に日にその置いてけぼりの気持ちは強くなってゆくのだ。

 こんな僕がカウンセラーを志したのは、友だちのことがきっかけだった。その友だちは所謂いじめられっ子で、小学校の時からひどい目に遭っていた。同じクラスだった時は僕も一応止めに入ったりしていたが、別々のクラスになってからはやはり同級生から間接的に話に聞く程度だった。そんな彼が中学を卒業して突然極道の世界に入ってしまった。噂では念願だった機械系の高等専門学校の受験に失敗したことと、それを友だちに馬鹿にされたことがきっかけだったらしい。

「あの優しかった子がねえ」僕の母親もそう言ってため息をついた。

高2の夏、仲間で小学校の同窓会をやろうということになり、当時の担任の先生に連絡を取ってみんなで集まった。久しぶりの再会にひとしきり盛り上がったあとで、ふとその友だちの話になった。ある友だちが旅行先の京都で偶然会ったというのだ。「あいつ、組からソープランドの経営任されてるって、えらい羽振りよかったな。おまけに『友だちのよしみでいい娘紹介するで、どうや?』って俺を誘うんだもんな。参ったよ」「で、お前、どうしたん?紹介してもろうたんか?」「アホ。『ワシゃまだ高校生やけんの』って断ったわ」それを聞いて同級生の男たちは「何、もったいないこと!」と一斉に声を上げ、女の子たちは横で満更でもなさそうに、それでいて白い目を男たちに向けていた。すると目が据わりかけていた隣のクラスの先生がぽつりと言った。「不憫なことや。誰かなぁ、誰か一人でもあいつの話聴いてやる奴、おらんかったんかな。一人でもな、そんなやつがおったら、人間そう道を外したりせんもんなんや。ワシら教師もほんま役立たずやなぁ」にわかに場が醒めていくのがわかった。帰り道、仲間の何人かで帰りながら「あの先生も少し年取ったんちゃうか?」などと軽口叩いていたが、それに乗っかる者はおらず、結局またの再会を約束して各自トボトボ家路についた。

 それ以来、僕はその友だちのことと、可愛がってくれた祖父の「人の役に立つ人間になれ」の言葉を胸に進路を選んだ。自分がカウンセラーという仕事に向いているかどうかは別として、あの先生の「たった一人でもいたら…」という言葉が僕の心をつかんで離さなかった。それは不思議な力だった。

 人形を抱えた少年がカウンセリングルームにやってきたのはもうだいぶ僕の難聴が進んだ頃だった。一応医者にもかかったが、「精神的なものかな?」とはなはだ心許ない診断をもらっただけ。実家の親には知らせなかった。余計な心配をかけたくなかったし、何より事情説明のしようがなかった。ところが困ったことに度々かけていた電話さえもができなくなった。相手の声が電話では尚更聞き取りにくいのだ。幸い日常では携帯メールが使える。しかし僕の親は未だに携帯すらよく使いこなせず、改めて手紙というのも不自然だし、いつの間にか連絡が遠のくことになった。

「さぁ、どうぞ」椅子を勧めると少年は素直にしたがった。そして人形の背に片手を突っ込むと「こんにちは、僕はキリンです」と甲高い裏声で自己紹介した。この少年がキリンの人形を通してしか会話しないことは先生から聞いていた。

「…まあ毎回同じ話しかしないんだけどね、でも話してくれるだけでも進歩なんだよ」しかし、そんな少年を前にして僕は陰鬱な気持ちになる。難聴が日ごとに悪くなっている中、僕にはこの少年の話すら聴けないかも知れない。そんな思いがあった。

 案の定、少年…、いや“キリン”は〈 海の話 〉をした。自分が今は乾いた陸で暮らしているが、昔は海に住み、仲間たちと自由自在に泳ぎ回っていたこと。そして陸に上がり、自分の首が伸びるのには「とてもとても長い時間」がかかったことなどを“キリン”は楽しそうにそれでいて訥々と喋った。“キリン”が〈 草原の話 〉を始めた時だ。突然彼の声がまるでさざ波が波打ち際から引いていくかのように僕の耳から聞こえなくなった。僕は慌ててその波を追いかけるがもう海自体が額に入った絵画のようにはるか遠くにあるのだ。仕方がなく僕は“キリン”の様子を見るしかなかった。もともとカウンセラーは多くを喋るものではない。僕は彼を見ながら、せめて彼の内にあるであろう〈 海 〉の香りや〈 草原 〉の風のにおいを感じようと心を傾けた。

 気がつくと“キリン”の話は終了していた。そこには何かをやり終えたかのように重くぐったりと肩を落とす少年がいた。少年はキリンの人形から片手を出し、「僕…」と言った。意外なほど大人びた声が僕の耳に入った。その声に我に返り僕は「なんだい?」としゃがれた声で言った。「僕、いままでこの話を最後までしたことがありませんでした。時間がなかったり、途中で話題が変わったり、ある人は怖がったりして。先生は変な人ですね。僕の話、知ってたんですか?」そう言われても僕は言葉の返しようがなかった。「正直言うとね、僕、人の話聴くの上手くないんだ。こんな仕事してるのに『空気読めない人』ってよく言われるしね。でも君の話は遠くで見てて、何かとても苦しそうで、それでいて楽しそうで、最後には『ああいいな』って思えたよ。今、どんな気分だい?」僕がそう言うと少年は少し笑って「くたびれた~って感じです」と一転して明るく答えた。そこで面談終了の時間が来た。少年はゆっくりと席を立ち、「これ、あげます」と僕に人形を差し出した。僕は返す言葉も見つけられずにそれを受け取った。少年はそれを満足そうに見ると入り口の方へ何歩か歩き、そしてドアの前で「もう、ここには来なくていいな」と呟いた。僕は内心ハッとしたが「そう」とだけ応えた。

 それからの僕はまた同じ暮らしの繰り返しだ。不思議なことにあの“キリン”少年との対話以来、耳の調子はいい。それでも会う人、出会う人の話に耳を傾けていると正直耳を閉じてしまいたくなることがしょっちゅうだ。そんな時あの“キリン”の話(?)を思い出す。そこにはさざ波と乾いた風の音が遠く響いている。                     

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