第2話『命の重さ』

「それでは一回戦のテーマを開けてみましょう」


 小平石さんが封筒を取り出す。僕を含め、十二人の視線が封筒に集まる。小平石さんはそのまま続ける。


「一回戦のテーマはこちらです。『トロッコ問題の答えを出せ』!」


 え?『トロッコ問題』って…、あの一人か五人のどっちかを助けろってやつ?


「『トロッコ問題』ですか?」


 江口さんがにやけながら言う。


「なによ『トロッコ問題』って。ちょっと!私は知らないわよ!そんなの!ちゃんと私が知ってる問題にしなさいよ!」


 隣の内山さんがつっけんどんに言う。


「内田さん。『トロッコ問題』っていうのは昔からある答えの出せない、一種の心理学テストのようなものです。知ってても知らなくても問題ないかと」


「あら、そうなの」


 続いて瀬島さんが内田さんに言う。内田さんも納得。そして小平石さんが解説する。


「ここで『トロッコ問題』を知らない方もいらっしゃるかと思いますので、そのご説明をいたしますね。ウィキペディアにこうあります」


 小平石さん、ウィキペディア好きだなあ。


「トロッコ問題、あるいはトロリー問題とは、『ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるのか?』という形で功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題・課題。人工知能が制御する自動運転車においても、衝突が避けられない状況でAIの判断基準をどのように設計するかという問題とも関連している。なお、以下で登場する『トロッコ』は路面電車を指しており、人力によって走らせる手押し車ではない。概要はこちらです。前提として、以下のようなトラブル(a)が発生したものとする。


(a) 線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった五人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。


 そしてA氏が以下の状況に置かれているものとする。


(1) この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば五人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が一人で作業しており、五人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?


 なお、A氏は上述の手段以外では助けることができないもとのする(置き石その他の障害物で脱線や停止はできないものとする)。また、A氏およびトロッコの運転手の法的な責任の所在を棚に上げており、道徳的な見解だけが問題にされている。あなたは道徳的に見て『許される』あるいは『許されない』で応えよ、という課題だ。つまり、単純化すれば『五人を助けるために他の一人を殺してよいか』という問題であり、功利主義に基づくなら一人を犠牲にして五人を助けるべきだ。しかし、義務論に従えば誰かを他の目的のためだけに利用すべきではなく、何もするべきではない」


 小平石さんが分かりやすく、黒板にチョークで描く。描きながら説明を続ける。トロッコと線路、分岐器、その先の線路二つ、一つには人が五人、もう一つには人が一人。


「これには『歩道橋問題』というものもあります。トロッコ問題に似ているが回答の傾向が異なる『歩道橋』問題。この問題は、分岐器を切り替えて一人を犠牲にするかどうかではなく、一人を上から線路上に落とすかどうかを問う。


(2) A氏は線路の上にある橋に立っており、A氏の横にC氏がいる。C氏はかなり体重があり、もし彼を線路上に突き落として障害物にすればトロッコは確実に止まり五人は助かる。だがそうするとC氏がロトっ子に轢かれて死ぬのも確実である。C氏は状況に気付いておらず自らは何も行動しないが、A氏に対し警戒もしていないので突き落とすのに失敗するおそれは無い。C氏を突き落とすべきか?


 トロッコ問題では一人を犠牲にすることが許されるという回答(すなわち功利主義的判断)をする人が多いのに対し、歩道橋問題では許されないという回答(すなわち義務論的判断)をする人が多い。これは二重結果の原理の一例として説明される」


 小平石さんは分かりやすく線路の上に橋を描き、C氏も描きこむ。そして言う。


「皆さんに選んでいただくのは『一人を犠牲にして五人を助けるべきか』、それとも『五人を犠牲にして一人を助けるべきか』、その判断です」


 これって…、答えはどっちも間違ってないんじゃあ…。そう思ってた時、内山さんが大きな声で言う。


「なんなのよ。こんなの簡単じゃない。大きな声で『危なーい!』って叫べば両方逃げるでしょ。そしたら両方助けられるじゃない。頭使いなさいよ」


 そうじゃない。それじゃあない。僕を含め、他の十一人は分かっている。小学六年生の小野田君だって分かっているはず。


「私もそう思います。叫べばいいんじゃないですか?」


 おーい。おじいさんの徳永さん。やっぱり爺さん婆さんは頭がお気楽だ。


「内山さん、徳永さん。これはそういう『知恵』を議論する問題ではありません。『どちらか』なんです」


「でも叫べば助かるでしょ?だったら第三の選択肢だってあるじゃないの。『知恵』?『知恵』こそが人間の武器でしょ?」


 根本的に違う。そうじゃない。ここで小平石さんが簡単に論破する。


「エレベーターを想像してください。そのエレベーターは百五十キロまでの重さには耐えます。さあ、三十キロの人を五人乗せるか?それとも百五十キロの人を一人乗せるか?そのエレベーターが『ノアの箱舟』だったら?叫んでもどうしょうもないですよね。選ばなければいけないのです」


「あなたねえ。今時のエレベーターはもっと重いものにも耐えるでしょ?」


 そう言いながら内山さんは照れ笑いに近い笑いを見せる。根本的に第三の選択肢はないとようやく理解したみたいだ。


「カミュの異邦人にこうあります。ゆっくり行けば日が暮れてしまう。急いで行けば熱射病にかかってしまう。逃げ場はないのだ、と。逃げ場はないんです。『五人』を犠牲にするか、『一人』を犠牲にするか。それを皆さんに議論していただき、答えを今日この場で出してもらうのが一回戦のテーマです。それでは考える時間を、そうですね。今から三十分差し上げます。もちろん時給は発生します。この時間も時給はずっと発生しています。トイレにいくのも自由です。部屋を出て突き当りにございます。飲み物はフリードリンクとなっています。喫煙も自由です。他の方と相談し合うのも自由です。三十分後にわたくしが皆さんにお声がけをいたします。それまでに『五人』か『一人』かを決めておいてください。三十分後から議論を開始いたします」


 小平石さんはそう言ってスマホを取り出して弄りだした。その時に初めて僕は気が付いた。小平石さんの椅子はない。ずっと立ちっぱだったのだ。

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